再びJAZZYな夜

再びJAZZYな夜
「ああ、そうだったの?」

みゆきさんが、驚いたような、感心したような声でいった。

演奏の前半が終わって休憩時間に入ったときだった。

私たちはほかの客たちと同じように、緊張から解き放され、小声で感想を話し合ったり、ワインを口に運んだりしていたが、この「ジャズの夕べ」のパンフレットを眺めていたみゆきさんが、その中になにかを発見し、私に顔を寄せていうのだった。

「3人とも、洗足学園の出身なんですって。へぇ、そうだったのか。不思議な縁があったのね」

いわれて私もパンフレットを見直してみたが、今夜のジャズメンの3人とも30代半ばという若さで、ともに洗足学院園の音楽科、ジャズ演奏科に学んでいることがわかった。

つまり、3人ともみゆきさんの離れた後輩というか、みゆきさんの父親からつながる縁者だということだ。

みゆきさんの父は、スイスに生まれ、ヨーロッパですでに認められ、活躍、後年日本を中心に活躍した世界的なピアニスト、マックス・エッガー師。その演奏は高度な音楽ファンを魅了し続け、数多くのレコード、CDを残し、いまも聴き継がれている。

エッガー師は、晩年の数年間、いまは川崎市にある洗足学園で、名誉教授、特別待遇師範として静かに君臨していた。もちろん今夜の3人は、知る由もないだろうが。

そしてわがみゆきさんも、しばらく前まで、その洗足学園で音楽を教えていたのだった。

「あの学校からは、いまもこんな優秀なひとたちが育ってるのね」

うれしそうで、懐かしそうなみゆきさんだった。

 

ウッドベース   斎藤草平

ピアノ      成田祐一

ドラムス     福沢久

 

「久しぶりにジャズを聴きたくなったね」

と、私がいい、

「そうね、行きましょうか」

と、みゆきさんが頷き、「ダフネ」行きはあっさり決まった。

湘南の葉山に住んでいて、ジャズとなると真っ先に名前が浮かぶのは、鎌倉の「ダフネ」。小さなジャズクラブだが、その名は全国に轟いており、日本中のジャズマン、ジャズ歌手が、この店を目指してくる。

アメリカやヨーロッパの音楽家も、日本に来たときには喜んで出演する。

 

再びJAZZYな夜
ネットで調べて、よさめな夜を選んでやってきたのだが、その名を知らず、期待半ばといった気持ちの私たちにとって、この3人は予想、期待を大きく裏切る、高度な演奏を聞かせてくれたのだった。

 

ジーンズに長袖Tシャツ、裾出しシャツに小ぶりなハットといった、ごく砕けた街角ファッションは、ストリートライブを思わせるが、演奏はなかなかのもの。

表情を変えず静かに、それでいてめりはりを利かせ、ずんずんと身体に響く斎藤のベースに、控えめに、だがときにはもぐりこむように前面に出てくる福沢のドラムス。

だが、私たちが心奪われたのは、成田のピアノだった。

よれよれ、だぶだぶのTシャツで、痩身の成田は斜めに坐り、ピアノの鍵盤に覆いかぶさるようにして演奏する。

しかも、ピアノを弾くというより、撫でるように、掬うように、踊るように指を走らせる。

あまり見ないそんな演奏法でも、音は素早く飛び跳ね、舞い、叩きつけられる。高度なテクニックの持ち主だった。

私は現代日本のジャズ界に詳しいわけではないが、

野に偉人あり

オーバーにいえば、日本ジャズ界の、

フランツ・リスト

そうささやくと、みゆきさんはさすがに小さく笑ったが、それでも、

「クラシックではあり得ない指の動きだけど、凄い才能ね」

とささやき返した。

しかし、この成田は洗足学園音楽大学を出ている。クラシックピアノを学んでいる。基礎はしっかりできているはずだ。

完成された基礎の上に、自らの感性、味わい、テクニックを加える。

パブロ・ピカソ

といえば、みゆきさんはまた笑うかな。

このひとたちのジャズは、どちらかといえば白人のジャズ。

ニューヨークでいえば、「ヴィレッジ・ヴァンガード」より「ブルー・ノーツ」か。いや、それよりも、日本のジャズ、といったほうがいいかもしれない。いずれにしても私たちは、想定外の感動に、想定外だっただけなおさら、心動かされていた。

 

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「ダフネ」を出ても、すぐに帰る気分に離れず、鎌倉駅近くの気軽なワインバーに入った。

身体が火照っている感覚だった。

この夜のジャズについて、改めていろいろ語り合いするうちに、思い出話になっていった。

「懐かしいわね。あのころのわたしたち」

ちょうど1年前、私たちはこの「ダフネ」を訪れている。

ジャズトリオではなく、ジャズシンガー細川綾子のステージ。

 

細川綾子は、もう50年、60年近くも活躍する歌手で、アメリカ西海岸を中心に、ニューヨークもほかの都市も、ヨーロッパにもファンを広げている「小さなスーパースター」。

アメリカ時代のみゆきさんの年長の友人で、綾子さんが日本に帰ってくるたびにステージに駆けつけるという。

1年前も。

みゆきさんにはしばらくぶりの綾子さんで、誘われて同行した私には初めての歌声であった。

だが、この夜、ワインバーでの話は、ステージや歌声のことではなく、1年前の私たちの思いであり、気持ちであった。

あのころ、

「テリーとはまだ知り合って間もなくのころで、「ノアノア」や「エスメラルダ」や、佐枝さんの「やまねこ」には行ったことがあっても、葉山の外に出るのは初めてだった」

デート、という言葉がなんとなく思い浮かべられる、そんな夜だったという。

葉山からバスに乗り、逗子で横須賀線に乗り換える。

「バスで、並んで坐っても、わたし、すっかり緊張して固くなっていたの」

こうもいう。

「バスを降りるとき、先に降りたテリーがすっと手を貸してくれたのよ」

「そんなの、当たり前じゃない?」

電車で並んで立っていても、固くなっていたというみゆきさんに、私もいう。

「背の高いひとだと思っていたけど、電車で並ぶと、ぼくのほうが少し高かった。低い靴を履いてきてくれたんだね」

話は、ジャズから1年前に移り、ジャズバーの夜は更けていった。


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「大変よ。テリー。大変!」

みゆきさんがけたたましい勢いでメールしてきたのは、それから数日のことだった。

「綾子さんが日本に来てるのよ」

浅草での「ジャズ・フェスティバル」に出演するための来日だが、そのあと1回だけステージを持つという。

「あのあと、綾子さんで検索してたら出てたのよ。東京の蒲田のライブハウスに出るんですって」

行かない?といわれてふたつ返事で、OK。

半日がかり、下手をすると深夜まで帰れないようなので、プーリーを治美さんのところ、ハルホテルに預けて、ふたり、出かけた。

今度は新逗子から京急で蒲田まで。

ふたりとも行ったことのないところなので、パソコンで調べ、スマホで確認し、駅員に道を聞き、すっかりお上りさん状態。

 

迷った末にたどり着いた「OPUS HALL」は、ごくありふれた都会マンションの地下室、というより、地下ストレージを買って、大掛かりな回収を施したらしいライブスタジオ、というか立派な演奏会場。

数十人は入る空間は、一般家庭かホテルのロビーに近く、柔らかなソファが並び、全体が海の底のようなブルーな空気に包まれている。

すでに多くの客たちが静かに談笑している。男女、ほとんどが、年配者、高齢者なのが、なぜかおかしい。

ステージにはすでにピアノ、ドラムス、ベースが並べられているが、まだ青く静まりかえっている。

細川綾子が、ここで歌う。

バックバンドには、

谷口雅彦  ベース

森田潔   ピアノ

の名は記されているが、それだけ?

不思議に思う。

いかに細川綾子が高名であっても、これでひとり、ワンドリンク付きとはいえ、7000円はあまりにも高い。ジャズの、小さなステージの相場は、3000円。せいぜい4000円だ。

そのわけは、すぐにわかった。

 

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まず、ベースの谷口、ピアノの森田がステージに上がり、主催者でもある谷口が挨拶し、これから一緒に上がるメンバーを紹介する。

客席のうしろから、ゆっくりとステージに上がってくる3人の名を聞き、その姿を見て、私は驚きと、あまりの感激に声も出ない。ただ目を丸くするばかり。

「ハラグチ・イサム。ドラムス!」

見事な白髪の、大柄な老人が、ステッキを突きながら、ゆっくりステージ階段を上がる。

原口イサム。

父と本人と息子。3代にわたって日本ジャズ界の名ドラマーとして名を知られ、今年65周年記念コンサートで日本中を回っているという。85歳にして、日本学友協会の会長だ。

足もとはおぼつかないが、ドラムの前に坐ると、しゃきっと、毅然たる雰囲気を漂わせる。

 

「イガラシ・トシアキ・アルトサックス!」 

五十嵐明要。

このひとも、数十年にわたって日本のジャズを牽引し、いくつものビッグバンドで活躍した大御所。

若く見えるが、84歳。

 

「ハラダ・タダユキ・バリトンサックス!」

このひとに、ここで会えるか!

原田忠幸。

3人の中ではいちばん若いが、それでも80歳。 

長身を杖で支えながら、ステージに上がる。

このひとの名をその昔から知っているひとは、かなりのジャズ通か、私のように業界に関わってきて、しかも高齢者だ。

英国人とのハーフの原田は、少年時代からドラマーだった父、ジミー原田と一緒にステージに立つようになり、ジャズ歴は50年余り。
日米いくつものビッグバンドに参加していたが、私がそのステージを見て、聴いていたのは「原信夫とシャープス・アンド・フラッツ」だった。

私のまだ駆け出し時代に、1度か2度、原田にインタビューしたことがある

が、ジャズのことではなく、雪村いずみの恋人であり、一時期の夫だったころの話だ。雪村いずみと親しかった私だったので、ほかのジャーナリストにはできない取材が可能だった。

原田忠幸には、クールでスタイリッシュだった50年前の面影が残っていた。

 

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この素晴らしいメンバーでまず数曲。

そののちに上がった細川綾子が、あの張りのある歌声をいくつか。

細川綾子は、歌のあいだのおしゃべりで面白いことをいった。

「このKKBのメンバーに、私もまもなく入れてもらうんですよ」

KKB。コーキ・コーレーシャ・バンド(後期高齢者バンド)。

 

途中の休憩時間。細川綾子は楽屋に戻らず、客席でファンたちと話す。

私たちの席にも来てくれた。
「まだ時差ボケが取れないのよ」

といいながら、

「逗子のときより声が出てるでしょう」

1年前には、風邪を引いていて不調だったという。そうは思えなかったが。

 

後半も、同じような構成、進行で続いた。

 

涙が出るほどの、いや、実際に涙を誘われたステージだった。

この顔ぶれで7000円は安すぎる。

 

わずか3人。バックを入れても5人。

小さなステージを縦横に駆け巡り、跳ね、舞い、弾み。

あたかもビッグバンドがそこにあるように、彼らは自在にスイングし、シャウトし、聴くひとをあらぬ世界に導いてくれる。

スタンダード・ナンバーから、世界のビッグバンドのテーマ曲。映画音楽から新曲。
前後半で数十曲。

 

それに加えて細川綾子の、心を揺らす歌声。

魂を奪われた。

客席に年配者があふれているわけがわかった。

みんな、数十年の昔に戻っていた。

 

ジャズは素晴らしい。音楽は素晴らしい。そして、人生は素晴らしい。

 

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