祭りの日に
その朝の浜は妙に静かだった。
いつもなら、早朝から犬の鳴き声や、散歩するひとたちのかすかなざわめきのようなものが伝わってくるのだが、それがない。うちの2匹も、だからなんの反応も見せず、私が出たあとのベッドで静かに眠りこんでいる。
ブラインドをそっと上げてみて、そのわけに気がついた。
雨の朝であった。しかも、霧のように音もなく降り注ぐ秋の雨。
そう。いつの間にか秋がやってきている。
つい数日前までは、涼しくなったとはいっても、やはり空気の底に夏の気配をしっかり留めていて、季節の変化は感じられなかったのだが、この朝の霧雨は明らかに秋のものだ。
部屋の前の浜に、すぐ前のノアノアを初めとしていくつも連なって建っていた海の家たちも、この数日の間にすっかり姿を消し、浜は、夏の喧騒などなかったかのように穏やかに口をつぐんでいる。
そしていま、静けさの中にある新しいものを見た。
部屋の正面、いくらか波打ち際に近い砂浜に、2本の竹が建てられていたのだ。
丈高い2本の竹は、葉のついたまま、上部にやはり2本の竹を渡して、あの独特の形を作っている。
鳥居の形だった。
ほんとうなら、横の2本のあいだ、真ん中に、貫(ぬき)と呼ばれる短い縦木があるのだが、それを省略し、しかも全体がわずかな風にも揺らいでいる姿は、いかにも簡便であり、形式的であり、それがかえって浜に似合っている。
そうだった。
今日と明日の二日間、森戸神社のお祭り。秋季定例祭だったのだ。
森戸神社のお祭り、森戸祭、は葉山、逗子のいくつもの海岸の祭りとしては、歴史も規模も屈指のもので、地元のひとたちはもとより、遠くからも多くのひとがやってくる。
というと、私も毎年参加しているように聞こえるが、実は祭りの賑わいの中に身を置いたことはまだないのだ。
昨年の森戸祭。
そのころ未紗は近くの施設に入っており、私と一緒に祭を見ることはできなかった。
神輿が施設の玄関先まで来てくれて、未紗はほかの入居者たちと一緒にスタッフたちに守られて見物した。
未紗がそうだから、私だけが祭りの群れの中に加わる訳にもいかず、ひとり部屋のベランダに椅子を出して、遠くに祭のさんざめきを聞きながら海を見ていた。
一昨年は、そのころ未紗は施設に入って間もないころだったが、私と2匹はまだ一色の“ゴヨーテー”にいた。
森戸に来るには車しかなく、祭り当日は到底車で動けるものではなかった。
だから、仕方なく犬たちを連れて近くのカフェで、未紗を案じていたものだ。
2年とも、未紗は施設の前で神輿を見たわけで、あとで、どうだった、と尋ねると、
「うん、面白かったよ」
と、テレビでインタビューされる幼子のような答えを返した。あまり関心も感動もなかったようだ。
今年の森戸祭は、だから私にとっては初めてのものになる。
だが、未紗はいない。
未紗のいない祭りに、ひとりで出かけてもつまらないな。
そう思って、部屋で2匹とだらだらしていた昼過ぎに、ある女性がピンポンしてきた。
Nさん。近くに住む奥さんだ。
いつも犬の浜辺散歩で出会う、いわばイヌトモのひとり。
「閉じこもっていても仕方ないですよ。プーちゃんとドゥーちゃんを連れてでも、お祭りに出てみてはどうですか」
Nさんはそういって、雑誌大の紙袋を手渡して帰っていった。
袋を開けてみると、1着の紺のTシャツが入っていた。
森戸祭、とプリントされたTシャツ。
いま私は、そのTシャツを前に考えている。
これを着て、祭りの群れに加わってみようか。
雨は、止んだか、小降りになってきているようだ。