ずっと一緒に
前回、更新して間もなく、3人の方から同じようなメールをもらった。
いくつかの写真の中に、私の部屋のキャビネットに収められている祭壇写真があったが、それが以前と違っている。どうかしたのですか、という指摘。
この3人が知り合いとは思えないので、この文章を読んでくれているひと、前の内容を覚えていてくれるひとが少なからずいるんだ、という不思議な感覚を抱いたできごとだった。
未紗が逝って,荼毘に付したのち、祭壇を作って、その写真を載せた一文を記憶していて、あのときの写真の、白い十字架を飾った黒く大きな箱がなく、代わりに白い小さなバッグが置かれている。
ということは、もう散骨をおすましになったのでしょうか、と、3人のうちふたりが尋ねてくれている。このふたりは、ずいぶん昔に書いた、私と未紗のあいだに交わした約束の一文をも覚えてくれているということなのだ。
ありがたいというか、うっかりしたことは書けないな、と感じさせられたことでもあった。
未紗との約束。
それは、どちらかが先に逝ったとき、通夜も葬儀も、告別式も、送る会も、すべてなしにして、直葬といって、病院から直接火葬場に移してのクリメイション、つまり荼毘に付し、遺灰をそばに置いておく。
そして、しばらく遺灰と一緒に暮らしたのち、時期を見て散骨する。
その散骨の場所は、私たちふたりが幾度も訪れ、あるいはその地に暮らしたところの海や川。そこにどちらか、残ったほうが行き、散骨用の小さな紙袋の遺灰をそっと水に浮かべ、流す。
具体的にいうと、まずパリのセーヌ川。
イエナ橋の下で、昔の映画「タンゴ・レッスン」などの舞台にもなった岸。
ブキニスト(古本屋)たちが箱のような屋台を並べているリブ・ゴーシュ(左岸)の岸もいいか。
次に、ベネツィアのどこかの運河。サン・マルコ近くやレアルト橋近辺は観光客で混み合っているので、大運河を越えてマッジョーレ教会近くか、さらにリド島まで渡ってもいい。ビスコンティの映画「ベニスに死す」の舞台、エクセル・シオーネ・ホテルの前の海、アドリア海に流すのもいいかもしれない。
もっといえば、水上タクシーを雇って、遠いサン・ミケーレ島の岸辺まで行ければ最高だ。ベネツィアの墓の島としていくつもの映画、絵画、文学作品に描かれている。
もうひとつは、私たちが日本に帰るまで住んでいたニューヨーク。
マンハッタンは、イースト・リバーとハドソン・リバーに挟まれており、どちらも素晴らしいが、ここは逆にマンハッタン・ブリッジを渡ってブルックリンのイースト・リバー河畔か、ハドソン・リバーの向こう岸、ニュー・ジャージ側のほうが、マンハッタンのビル群を眺める絶景で、かえっていいかもしれない。
そうしてほしい。そうしようね。
そんな未紗との約束話を、以前書いたのだったが、それだから祭壇写真の変化を見て、どうしたの、とのメールになったのだろうが、とりあえずの答えとしては、散骨はまだしていません、といえる。
大きな壺に入ったままだった未紗の遺骨を、専門業者に依頼して、散骨できるように細かく粉砕してもらって、小さくなった遺灰を祭壇に飾りなおしているのだ。
これでいつでも散骨の旅の出かけることはできるのだが、そしてそうするための粉砕だったのだが、ここにきて私の心が変わった。
心づもりでは、この秋にパリ、ベネツィアのヨーロッパに。
来年の4月か5月にニューヨークに、と考えていたのだが。
未紗の遺灰と一緒に3か月余り暮らして、そのあいだがあまりにも充実している。かつてなかったほど未紗と心を通わせている時間が多かったことに改めて気づいたのだった。
未紗をどこかの水に浮かべ、流してしまうと、そのときは胸の底から別れを叫ぶことができるかもしれないが、散骨を終えた後は、私のもとにはなにも残らない。
せっかく深くなれたのが、遠く離れ離れになってしまう。
散骨することも、希望する場所も、変わりはない。
ただ、散骨のときを変えよう。
そう考えた。
そのときは、私の粉砕した遺骨と未紗の遺灰を一緒にして、そして撒く。
つまり、私が逝ったのちに散骨してほしい。
もちろん私が実行できるわけはないから、然るべきひとにお願いすることになるが、そのひとへの心づもりはできている。
いつのことになるかわからないので、まだ具体的なお願いはしていないが、私たちの指定相続人になる司法書士の先生に伝え、先生から改めてお願いしてもらうつもりだ。もちろん旅費、経費はふたり分を多めに贈る。
そう決心したら、ひと安心した。
まだまだ未紗とふたりでいられる。プーリーとドゥージーも、一緒に。
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