人生を描き切った
ヘレン・シャルフベック
寒いけれど、まぶしく晴れ上がったある日、ぶらぶら歩いて20分、海に向かって大きく羽を広げたように建つ葉山近代美術館に行った。
美術館は久しぶりだ。本当に長い間行っていない。
最後に美術館というところに行ったのはいつだったろうか。
そうか。もう3年余りも前のことになるのか。
2012年の秋のことだった。
未紗とふたりでニューヨークに出かけようとして成田に向かったところ、ニューヨークを始めとするアメリカ東海岸が、記録的な大嵐。厳戒態勢が敷かれるほどの異常事態で、すべてのアメリカ便が欠航になるほどの騒ぎだった。
しかし、成田まで来たところで引き返すわけにはいかない。
そこで成田のロビーから、各所に電話を掛けまくり、パリ行の便を抑え、ホテルの予約もして、急遽パリに向かったのだった。
パリに行くまでの、そしてパリに着いてからのどたばたぶりは、その後帰国してから書いたはずだが、そのパリで未紗と行ったのが、最後の美術館だ。
着いた翌日、まだ疲れが残っているからと、ホテルの近くのオランジュエリー美術館。次の日とその次の日は、ルーブル。そしてオルセーにも、郊外のマルモッタンにも行った。ギュスターブ・モロー美術館にも行こうとしたら、その日が休館日だったことも覚えている。
このパリ旅行が、私たちの美術館訪問の最後になるとは、まさか思ってもいなかったのだが、帰国してすぐに、未紗の入院、手術、退院、また入院。施設に移ってからも、再度の入院、手術と続き、美術館どころではなかった。美術館に行きたいなどと、考えることさえできなかった。
未紗がいなくなって、引きこもり老人になり、外出は犬の散歩だけ。やはり美術館には遠い日々が続いた。
そんな私が、近代美術館に行ってみようかな、と思ったのはなぜだろうか。
年が明け、未紗が逝ってからも半年余り経ち、気持ちに少しだけでもゆとりが生まれてきたのだろうか。
近代美術館では、「ヘレン・シャルフベック(Helene Schjerfbeck)展」が催されていた。
ヘレン・シャルフベックは、北欧フィンランドの女流画家。
フィンランドでは、国民的画家、といわれているそうだが、世界的にはその知名度は低い。
世界の美術館に比較的多く足を運んでいる私でも、ヘレン・シャルフベックといわれて、どのような絵を描いたひとなのか知らない。
どこかの美術館で観たことがあるかもしれないが、記憶に残っていない。
そのわけは、やがてわかった。
この美術展には、84点もの作品が展示されているが、そのすべてがフィンランド国内の美術館に収められているものか、フィンランドのひとの「個人蔵」とされている作品ばかり。
つまり、ヘレン・シャルフベックの作品はフィンランドを出ることがなかった。パリやニューヨークの美術館に貸し出されたことがあったとしても、短期間に「帰国」してしまっていたのだ。
だから、この美術展を通してヘレン・シャルフベックを知ることになったのだが、画家として、そして女性として、なかなか興味深いひとであった。
ヘレン・シャルフベック(1862~1946)は、首都ヘルシンキで生まれるが、幼少時に事故に会い、腰、そして脚が不自由になり、生涯杖が手放せなくなった。
だが、幼いころから絵の才能に恵まれていたようで、それを認めた両親の勧めで、一般の女学校、高校ではなく、アドルフ・フォン・ベッカーという高名な画家が運営する美術学校に学ぶようになる。
才能はたちまち開花し、まだ在学中の18歳にして作品がフィンランド芸術協会のコレクションに加えられるほどにもなった。
卒業後、2年間だけパリに遊学したものの、帰国後はほとんど国を出ていない。
フィンランドに住み続け、フィンランドを描き続け、フィンランドで悩み、フィンランドで傷つき、そしてフィンランドの土に戻っていった女性。それがヘレン・シャルフベックなのだ。
作風はゆったりと大きく変わっていった。
初期は、リアリズムの画家として、筆致、構成など申し分ないのだが、これでは西欧の優れた画家たちには太刀打ちできないだろうと思える作品が多い。
うまいけれど面白くない。輝きがない。はっとするものがない。
要するに、田舎臭い。
だが、それでもフィンランドでは立派に通用し、次々に依頼が来るのだが、そのままだったら、今日の彼女はなかったかもしれない。
きっかけは、失恋、であった。
ヘレンは、先輩画家のエイナル・ロイターという男性に出会い、恋し、恋されて、婚約にまで至った。
ロイターはヘレンの伝記まで執筆し、出版した。幸福の絶頂期だったようで、そのころの作品が最も多い。
だが、2年後、ロイターは世間に向けて婚約を発表した。
相手の女性は、ヘレン・シャルフベックではなかった。
なにも知らされずに進められた裏切りだった。
立ち直れずに過ごした数年を経て、ヘレン・シャルフベックは生まれ変わったかのように、次々と作品を発表し始めた。
作風は変わっていった。
1か所に留まることを拒絶するように、作風は幾度も変わっていった。
展覧会場を歩いているだけでも、それは感じ取ることができる。
あるときは光のパッチワーク的でシャガール風に、あるときは暗く重くユトリロ風に。
これはマチスの模写か、と思えるものも、先祖返りしてリアリズムもある。
ヘレンみずから題名に「チマブーエによせて」、「エル・グレコによせて」と付けた作品もあれば、これはどう見てもベラスケスだろうという絵もある。
ヘレン・シャルフベックは、生涯悩み続けた画家であったろう。
国民的画家、といわれながらも現状に満足せず、恥じらいも躊躇いもなく、ものまねといわれようとも新しいものを追い続ける。
1946年、ヘレン・シャルフベック逝去。
最後に残されたのは、泡立つような色彩の静物画。りんごの絵であったという。
ヘレン・シャルフベックの人生を見た気持ちで美術館を去り、海に沿って歩きながら思っていた。
人生は、どんな人生でも、素晴らしい。
Life is Beutiful