「ベニスに死す」のように

「ベニスに死す」のように ゴルフの日本シリーズ最終日は、ここ数年なかった手に汗握るいい試合だった。

前年、優勝の池田勇太と、その池田と競り合って惜しくも2位に終った小平智との、2年連続の最終日、最終組での争い。

試合は一進一退、抜きつ抜かれつというより、お互いが崩れそうで崩れない我慢比べのホールが続き、最後の最後、18番ホールでの、紙一重の運の動きで、小平が2メートルほどの微妙なパットを流し込んで、第80代日本オープンの覇者となった。

見終わってもしばらくはテレビの前から離れられない、豊かな感動を残してくれた試合であった。

 

その思いをもう少し味わっていたくて、小さなベランダに出て、海を眺める椅子に座った。

いつもならワインかビールが手元にあるはずだが、それにはまだ少し時間が早い。それに間もなくペットシッターの山口治美さんが来て、プーリーとドゥージーを浜の散歩に連れ出してくれ、それに私も一緒に歩くことになっている。

 

目の前の浜には、まだ明るい夕日が降り注いでおり、日曜だからなのか、幾組かの家族、グループがくつろいでいる。秋の穏やかな森戸海岸の姿だった。

しばらくその穏やかさに浸っているうち、ゴルフの感動はやがて薄れ、私の心はあてもなくさまよい始めた。半分眠っているように。

 

最近の私は、酒の飲み方が変わってきたようだ。いや、酔い方が、残り方が変わった、というべきか。

年を取って弱くなったのではなく、むしろその逆で、酒に強くなった気がするのだ。

昔も今も、飲むことに変わりはない。誰が見ても飲みすぎだろうことも同じだ。ただその残り方、現れ方が違ってきたのだ。

以前は、持病の二日酔い、と自分でもいい募っていたように、午前中は頭が重い。胃がむかつく感覚は日常的で、長年それに慣れ親しんでいたような感じだったが、いつのころからだろうか。

 

「ベニスに死す」のように 葉山に移ってきてから、特に未紗が入院し、退院して施設に入ってからだと思うが、外で飲んでひとりで帰って、2匹の犬をそばに置いて飲み直し。そんなとき突然胸が締め付けられるような苦しさに襲われ、ああ、これ以上飲んだら死ぬな、と実感することがあった。というより、多くなった。

そんなときにはさすがの私でも、飲むのをやめて、飲みかけのグラスの中身を水に変えて寝室に移る。

翌朝、恐る恐る目覚めて、ああ、まだ生きている。

 

施設に入った未紗の近くへと、現在の森戸海岸に移ってから、その「臨界意識」は消えることなく、形を変えて現れるようになった。

胸が締め付けられるのではなくなった。頭の中がぐるぐる回るのは酔っ払いの常態だが、私の場合、飲んだ翌朝、脳髄が頭の中で揺れている。ふわふわ浮いて、漂っている。そのままとけるか崩れるかしそう、というフラジャイルな感覚。

すーっと死の世界に吸い込まれていく。そんな気分だった。

 

幸い、というか、幸か不幸か、私の「臨界」はすんでのところで留まってくれていたようだが、それがここしばらく、やってこない。

かなり飲み過ぎたな。明日朝が大変かな、と覚悟はしていても、翌朝4時か5時には目覚め、身体は自然に動いて、犬のトイレの掃除、張り替えをして、再びベッドに。

眠ることもあるし目覚めたままのときもあるが、次に起き上がるときの気分は極めて良好だ。

つまり、持病の二日酔い、はいまほとんど現れない。

 

「ベニスに死す」のように どうしてか。

思うに、ここには未紗が関係しているのだろう。

胸の苦しさも、頭の崩壊感覚も、そのころは未紗がいた。

病院であれ、施設であれ、私は未紗のそばに日に数時間はいた。

酒の時間は、未紗のもとから帰ってからのことだが、そんなとき完全に心をほどいて飲むことはできない。

いつ、すぐ来てください、の電話がかかってくるかわからないし、事実3回そういうことがあった。6月28日の4回目が最後だった。

私は、酔うまい。酔ってはいけない、と自分自身を引き締め、押し殺して、それでも飲んでいたのだ。飲まずにいられなかったから。

 

いま、そのストレスが消えた。

未紗がいなくなったというか、この狭い部屋で、いつも未紗と、未紗の心と一緒にいる。いつも未紗を感じていられる。

だから安心して酒が飲めるし、安心して酔える。

こうして、ベランダの椅子で、海を見ながら。

そして、このまま眠るように死んでいく。映画「ベニスに死す」のように。

 

そうだ。

私は、死を待っているのかもしれない。

いつ死んでも、もういいのだから。

 

山口治美さんが来たようだ。

 

「ベニスに死す」のように

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