ひと夜の臨死体験   

生きていてよかった、としみじみ思った。

目覚めたのはまだ秋の夜の明ける前。白いブラインドの外に明るさはなく、ベッドサイドの小さなライトが部屋の中をぼんやりと映し出している。

ゆっくりと視線を巡らし、右手を動かしてみる。

プーリーとドゥージーがそこにいた。プーリーは私の腰の横に、ドゥージーは頭の横、枕の端の狭いスペースに、それぞれ体を丸めるように眠っている。背中やお腹をさすっても身動きもしない。すっかり安心して熟睡しているのだ。

ああ、私は生きている。改めて思った。

もしかしたらこんなときはもう来ないかもしれないと、本気で思っていたのだった。

 

ひと夜の臨死体験酒が弱くなった。そう感じるようになったのは、もう1年以上も前のことではなかったか。

未紗はすでに施設に入っていたが、私と2匹はまだゴヨーテーで暮らしていた、そんなころだ。酒が弱くなった。酔い方がおかしい。

外で飲んで帰ってきても、初めから家で飲んでいても、ある程度進んだころに妙な息苦しさを感じるようになった。

気のせいかもしれないが、急に胸の鼓動が激しくなり、胸元になにか引っかかっているような息苦しさに襲われる。呼吸が素直にしにくい。

昔にはなかった感覚だ。

そんなとき私は、さすがに飲み続けることはやめ、ぐっと胸をそらす姿勢でしばらく深呼吸を繰り返す。

んーん、とうなり声をあげていたのだろうか。近くで眠っていた2匹が不思議そうな目で見ている。それに、大丈夫だよ、と頷いて見せ、深呼吸を続けると、そのうちに気分は収まってきた。

胸の息苦しさは消え、身体も楽になり、私は次の1杯を、少しずつ試すように口に入れ、なにごとも起こらないのを確かめて、改めて飲み続ける。

そんなことが月に1度ほど続いたが、そのほかにはなんの変化も起こらなかったし、そのうちにその息苦しさもやってこなくなったので、やがては忘れた。

医者には定期的にかかっており、肝臓にも胃にも、多少の問題はあるにせよ、加齢のせい、で済まされるほどのことだといわれ、気にもしなかった。あとで思うに、心電図や脳のCTスキャンでも撮ってもらえばよかったかもしれないが、私としてはお気楽に考えていたのだ。

 

ひと夜の臨死体験ゴヨーテーから森戸海岸に移ってきても、連夜の酒は相変わらず。

未紗という目付け役がいなくなり、特に夏の2か月間は、目の前の海の家で、犬の散歩帰りに数杯の生ビールを飲み、そのあとにいつもの酒の夜が始まるので、それだけ酒量が増えていたかもしれない。

夏が過ぎ、海の家もなくなり、さすがに酒量を減らそうかな。おれももうトシなんだから、少しは身体のことも考えなければいけないな、と考えるようにもなり、そんなときであった。

昨夜のことだ。

 

ちょっと面倒な本を読み終わったことも、施設の未紗の体調、気分もこのところいくらかずつでも快方に向かっている、とのこともあり、珍しく(もないか)夕刻からバルコニーにディレクターズチェアを持ち出し、夕陽の江の島と富士山を眺めながらスプマンテを1本。

そのあと、なにか作って食べようかとは思ったが、気分がいいので、犬の食事だけを作り与えて、外に出た。

といっても、マンションのすぐ前の菊水亭だが、まずにんにく丸のままを低温で揚げた塊、モッツァレーラチーズとトマトのサラダを前菜に、サザエのオイル焼き、豚タンのソテー、あとなんだっけ、そんなものをいくつか注文。珍しくバランスのいい食事となった。

飲み物は、とりあえずの生ビールを2杯。あとはキープしてある焼酎の水割り。1升瓶に10センチほど残っていたのを飲み干したので、水割り5杯ぐらいだろうか。私は身体のことを考えて、水割りは薄めに作る。

それだけで菊水亭はおしまいなので、これをもって飲み過ぎとは誰もいえないだろう。

いけないのは、酒がそれで終わらなかったことだ。

犬が待っているから、と部屋に帰ったのがまだ9時過ぎ、というのもよくなかった。

 

ひと夜の臨死体験本を読んだり、パソコンに向かったり、の気分ではなかったので、プーリーとドゥージーを両脇に、助さん、格さんさせてテレビに向かう。

なにを観たか、忘れた。ということは、すでにして酔っていたのだろうか。

だが、なにも飲まないわけにはいかない。

冷蔵庫から缶ビールを出して2本。ビールはもういいや。菊水亭でイタリアンっぽいものを食べたのを思い出し、1杯か2杯、と自分にいい聞かせて赤いイタリアワインの栓を抜く。

私が1、2杯で終わる訳がないじゃないですか。結局次の“もう1本”の1、2杯まで進んでしまった。

 

さあ、もう寝よ。
ベッドに入って、読みかけの本を開いたが、頭に入る訳もない。諦めてライトを消して目を閉じたとき、それはやってきた。

目の前でなにか大きな音がしたような気がし、次の瞬間、頭の中がぐるぐると回り始めた。

ぐるぐる、などというものではない。ぐゎらん、ぐゎらん。ぐぃーん、ぐぃーん。きゅぃーん、きゅぃーんと、できの悪い少年劇画のように私の頭は揺れ動き、回り続ける。

ああ、これは行くな。そう思った。

おれは間もなく死ぬ。

これで目をつむったら、おれは2度と起きることはない。

   

ひと夜の臨死体験朝になっても、いつまでも目を覚まさない私を、犬たちはどう思うだろうか。
トイレの掃除もしてくれないし、水も取り替えてくれない。そればかりかご飯もくれない。散歩にも出かけない。

おかしいな、とは思いながらも、半日くらいは部屋の中を歩き回ったり、私を起こそうとしたりするだろうが、もう私がなにもしてくれないと察したとき、彼らは外に向かって助けを呼んだりできるだろうか。

そして、数日が過ぎていき、彼らも飢えて死ぬ。

ああ、可哀そうなプーリーとドゥージー。

 

施設の未紗に、私の死は伝わらない。

「ご主人、見えないですね」

そういわれて、

「どこかに行ってるんでしょう。アメリカかイタリアか」

あいつのことだから、と怒りを抑えるに違いない。

それはいいのだが、これから先、未紗の世話するひとはいない。一応後見人は用意してはいるが、事務的、経理的、法的なことしかしないから、未紗はひとりぼっちの老婆となる。

ああ、可哀そうな未紗。

私は、そっと目を閉じた。2度と開かないはずの目を。

 

目が覚めたのは数時間ののちであった。

私は生きていた。

生きていてよかった。

だが、終わったわけではない。

今度はもう、目を覚まさないかもしれない。

そうなったときの備えを、もっとしっかりとしなければならない。

どうすればいいのか。

それをこれから考えよう。

酒をやめるわけにはいかないし。

 

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