ジェイコブス・ラダー

前回、というよりタイトルを変えての第1回目の最後に、これからの私は「浜の上の白い部屋」に暮らしていく、というようなことを書いた。

ところがそれをアップしたふつか後、私の部屋ばかりではなく、部屋の前にドーンと広がる浜、森戸海岸までが真っ白に変わってしまった。そう、45年ぶりだと大騒ぎになったあの大雪が、温暖なここ湘南までも一面の雪原に染めてくれたのだ。

だから前回の文章も「白い浜の上の白い部屋」と変えなければならない。

いつもはパソコンに向かっているディレクターズチェアの向きを変え、身体を投げ出すように坐って窓の外を見る。見るといっても、景色といえるようなものはなにもなく、降りしきる雪の中、暗い空の下に真っ白な浜が広がっているばかり。

そのなにもなさが、かえって私の気持ちを自由にしてくれたようで、そうしてだらしなく坐ったままいつしか眠りに入っていったようだ。

 

昨年末にこの森戸海岸に移ってから、私の生活スタイルは大きく変わった。

ゴヨーテーのころは、朝は7時過ぎには起きていた。

ジェイコブス・ラダー家から道1本隔てたところが町内のごみ置き場。そこにごみの袋を運ばなければならない。燃えるごみ。燃えないごみ。瓶や缶。ペットボトル。資源ごみなど、その内容が把握できないほど細かく分けられて、ほとんど毎朝収集される。8時までに出してくれ、と書かれているのでゆっくり朝寝している余裕はなかった。

ごみ出しの後、再び寝ることはできない。1階のリビングルームで抱き合うようにして眠っていた2匹の犬たちも起きだしてくるから、夜のあいだに熱心に汚してくれたトイレの掃除をし、これは缶詰を開けるだけだが、彼らの朝食も出さなければならない。

1階のすべてのカーテン、ブラインドを開け、空気の入れ替えのため窓も開ける。

少し落ち着いてから、コーヒーを淹れ、シリアルと野菜ジュースで自分のための朝食。

それからあとは天候、気温などによるが犬の散歩に出かけたり、庭の水まき、手入れをしたり、どの時間帯かは変わるが、車を出して未紗のホームに通う。

そんなゴヨーテーでの暮らしから変わっていまは、朝は好きなだけ寝ていられる。ホテル形式のマンションなので、ごみ出しは好きなときにすればいい。

建物の横の広いスペースに大きなコンテナーがいくつも並んでいて、それぞれ可燃ごみ、プラスティック、アルミ缶、スティール缶、ミックスペーパーなどと書かれているからそこに放り込む。ほかの住人が出したごみを見ると、みなさんかなりいい加減な分別をしているようだから、こちらも気が楽だといえる。

2匹の犬も、こちらでは私のベッドの上だから、安心なのかいつまでも寝ている。小さなベッドなので、足元や顔の横、腹の上などで爆睡されると寝返りひとつ打てないし、いびき、鼻息はうるさいし、ときになんの夢を見たのか突然吠えてみたりする。

だからベッドにいる時間の割に、私はいつも睡眠不足気味なのだが、自分にぴったりくっついて安心しきっている2匹を見るとつい心を許してしまう。

この子たちはおれがいないとどうしようもないんだ。そう思う。

おれがいないと。そう思わせるのはほかにもうひとり。

 

未紗のホームに通うスケジュールも変わった。

これまでは毎日のようにとはいっても時間帯はばらばらで、しかも未紗が体操や水彩画クラス、フラワーアレンジメントクラス、音楽教室、映画上映などのアクティビティ。外部から来てくれるさまざまなアトラクション、エンターテイメントなどに参加するときには私はホームを離れていた。

しかし今は週に3日、未紗の部屋で一緒にランチをとり、そののちの2時間ほどふたりで過ごすし、そうでない日は夕方4時過ぎにホームに寄って6時過ぎの夕食に、未紗を1階のレストランまで連れていって帰る。

毎日決まって私が来るので、そのせいばかりではないだろうが、未紗の調子も少しずつよくなっているようだ。顔色もよくなったし、食欲も旺盛になったという。

やはり“おれがいないと”なのだろう。

 

居眠りをしながらそんなことを考えていたようだが、首や背中が痛くて目を覚ました私の目の前には、やはり一面の雪。先程からはいくらか治まったようで、降りしきるといった感じではなくなってはいるが、それでも降ることは降っている。

これでは2、3日大変だろうな。

そんなことを考える私の目の前で、なにか変化が起こったようだ。
雪の浜とそれに続く暗い海。そのはるか先に広がっているはずの空は、海と一体化していて判然としない。

はっきりしない空の、さらに上あたりがそのときぽっとかすかに明るくなったようだ。

そしてその薄明かりの中から一筋の光のようなものがすーっとまっすぐ私のほうに伸びてきた。

ほかの誰にも、犬たちにももちろん見えない、そんな光のひと筋が、私だけには見えた。そんな気がした。

 

あれはなんだったのだろうか。

やがてすぐに見えなくなった光の筋は、私の心にいつまでも残っていた。

そして私は確信した。

あれは、ジェイコブス・ラダー、に違いない。

 

ジェイコブス・ラダー昔『ジェイコブス・ラダー』という映画を観た。

アメリカに住んでいて観たので、日本でどう訳されたか、邦題は知らないが、当時流行していたベトナム戦争のトラウマを描いた、いわゆる反戦、厭戦映画のひとつだった。
映画のことはここでは関係ない。ジェイコブス・ラダーという言葉が大切なのだ。

旧約聖書にこんな話がある。

羊飼いのヤコブが、仕事に疲れて野原の木の下で昼寝をしていて、ふと気がつくと天空の一角からすーっと光が降りてきた。

その光に乗って、天使のようなひとが、これもすーっと降りてくる。

そしてヤコブにいうのだ。

「さあ、わたしと一緒に行きましょう。あなたは神に召されたのです」

そしてヤコブは天使に導かれて、天に昇っていった。

 

日本人には、なぜこんなところで階段が登場するのか、わかりにくいことだが、キリスト教の世界では、ひとが死ぬとき、天からひと筋の光が階段のように降りてきて、天に連れていってくれるという。

だからいくつもの映画でそうしたラストシーンが描かれてきたし、オペラでもそのような演出を見ることができる。『ドン・ジョバンニ』でもあったし、ベルリオーズの作品にもあった気がする。

「ヤコブの階段」といえば、それは「死」を意味するのだ。

「ヤコブの階段」つまり「ジェイコブス・ラダー」。

 

私は「ジェイコブス・ラダー」を見た。

私が天使に導かれて天に昇っていったあと、彼らはどうなる。未紗とプーリーとドゥージーはどうなるのだろうか。

 

多分これは、窮屈な姿勢で居眠りしていたから見た“つまらない夢”なのだ。そう思おう。


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浜辺の上の白い部屋