いま改めて感謝の日々

 

未紗がまたやってくれた。

 

12月に入ってすぐのこと、まだ朝早い時刻に、未紗のホームから電話がかかってきた。
その日のランチには、私が出かけていって未紗と一緒の部屋で食べることになっていたので、その確認か、変更か、と思って出ると、なんと、

「未紗さんが夕べ遅い時刻に部屋で転倒されて、頭を強く打ったので、今朝早く鎌倉の病院にお運びしました。MRIなどの検査をして、そろそろお帰りになるころです」

と、いささか慌てた口調でいう。

あーあ、またか。

肩の力ががっくりと落ちる気分だった。

 

転倒して骨折したり、頭を強打するのは、なにも今回が初めてではない。というより、あたかも恒例行事であるかのように繰り返されている。

2年前、ゴヨーテー(知らないひとがいるだろうから説明すると、葉山の御用邸のすぐ近くに自宅を作ったので、少々の自慢とおふざけを交えて、「葉山の御用邸」ならぬ「サヤマのゴヨーテー」と私が勝手に名づけた)の2階寝室で、これも未明の時刻にトイレに行こうとして転び、腰と頭を床に叩きつけられ、私が未紗をそのころ通っていた逗子のA病院に運んだ。

そのときの話は、この場所にも書いたが、かなり大変な作業だった。

家にエレベーターをつけてよかった。完全バリアフリーにしておいて助かった、など自分の先見の明を誇る内容だったと記憶しているが、あのときは、頭のほうは大丈夫だが、左大腿骨の付け根(大腿骨冠頭)の骨折があるとの検査結果で、そのまま私が車に乗せて横須賀の大病院に運び込んだ。
そして数日後に手術。2週間後に退院、というかもとのA病院に戻り、そのまま3カ月にも及ぶ入院、リハビリ生活が続いた。

これがちょうど2年前。

 

まだある。

葉山に越してきて間もなくのことで、これも12月に入ってすぐのことだが、まだあまり詳しくない御用邸近辺の探索を兼ねて、近くのそば屋に食事にいった。いまはもう閉めてしまったが、大正時代から脈々と続いてきた歴史的にも名店といわれた店で、なんとなく昔風な味覚が感じられて、ここならしょっちゅう来ようね、などといい合ったものだが、その帰り道だった。

ゴヨーテーに帰る途中、スーパーマーケットの広い駐車場を抜けて歩いていたところ、うしろから来るはずの未紗が来ない。

おや、と振り返ってみると、未紗が駐車場の地面に倒れている。車止めの低いブロックに躓いたのだろうか、身体を丸めて動かない。

駆け戻って抱き起して驚いた。手もつかずに顔面から倒れ込んだらしく、左目の上あたりが激しく傷ついており、流れる血が顔やコートの胸元を汚している。

どうしようか。近くなので家まで担いで帰って、そこから救急車でも呼ぶか、応急処置や消毒をして、近くの外科医院に連れていくか。

迷っていると、そこのスーパーマーケットの女性警備員が救急車を呼んでくれた。

5分後に救急車がやってきて、未紗は大きな病院に運び込まれた。

警備員の機転に助けられたわけで、それはもちろんありがたかったのだが、運び込まれたのが遠く離れた横須賀の、奥まったところにある病院だったため、未紗を運ぶ救急車を追いかけるにも、それから数日間通うにもかなり大変な思いをしたのも事実だった。

4年前のこの事故では、骨折はなく、目の上の打撲と切り傷で済んだのだが、あとで考えるに、このときの頭の打撲が、未紗の精神の動きになんらかの影響を残したのも事実であったろう。

 

こうして2年に1度の大きな事故。

いま改めて感謝の日々未紗は鎌倉の脳神経外科に運ばれて検査を受けたわけだが、そこで調べた脳波などには、以前からの乱れはあるが、今回の転倒打撲によるものではない、との判断が下された。

ところが、未紗が痛がるのでついでに調べ、レントゲンを撮った結果、左の大腿骨が骨折していた。
2年前の骨折は、大腿骨冠頭だったが、今回はその近くであっても、大臀骨という腿や臀部の筋肉と腰骨をつなぐジョイントにあたる部分の骨が折れていた。

ということはあとで知らされたことであって、私がホームに駆けつけると、いったん帰ってきた未紗は、今度は救急車で大病院に運ばれていったあとだった。2年前の横須賀の大病院。里帰りしたようなものであった。

私もすぐに追いかけたのだが、大病院についてみると、未紗はまだ。

病院を間違えたのかと思っているうちに、ふたりの屈強な隊員に運ばれて未紗がやってきた。
レントゲン写真などは鎌倉の病院から移されていたので、こちらの担当医からすぐに説明があった。
年配の医師は、私が部屋に入っていくと、

「しばらくでしたね。お書きになったものは読んでいますよ」

2年前の担当、手術医と同じ医師だった。

ああ、よかった、と感じた私は少しおかしかったろうか。

「前と比べて半分ほどの簡単な手術ですから、ご安心ください」

医師は、大きくうなずいてくれた。

 

2年前、そして4年前、未紗が大きな事故を起こしてからというもの、私の日々は未紗を中心に動いている。

数カ月の入院もあったし、いまのホームに入ってからも、間もなく1年半になるが、だからといって私の日々は変わらない。

ほとんど毎日、未紗のベッドのそば、未紗の食卓の隣にいるし、離れているときも服飾、化粧品、衣料品、周囲のひとたちへのお礼の品々などの買い物、すべて私の仕事だ。

私にとって未紗の世話と、プーリーとドゥージーの世話が、いまの暮らしのすべてといってもいいほどで、だから、

「プーとドゥーとバーの世話係だ」

といっているのもあながち冗談ではない。

この日はまだまだ、もっともっと濃密になって続くだろう。

 

不満があるのではない。文句をいっているのでもない。

オーバーにいえば、70年近く、わがままいっぱい、自分の好きなことだけを、好きなようにして、世界中、行きたいところに行き、住みたいところに住み、そうして生きてきた。

自分のためだけの人生だった。

40年余りは、未紗も一緒に歩いてくれたが、私が未紗に合わせたのでなく、未紗が合わせてくれた。付いて歩いてくれた。

だが、いまは、私が未紗に合わせ、プーリーとドゥージーを見守って生きている。自分以外のひと、自分だけを頼っているもののために生きる、その喜びをいま、私は味わっている。

未紗とPとDに、感謝してもいるのだ。

 

今日の午後3時半から、未紗の手術が始まる。

その前に、2匹を連れて海岸を歩かなければならない。

何時に帰ってこられるかわからないので、2匹の夕飯も作っておかなければならない。

 

 

いま改めて感謝の日々

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