素敵な音楽家たち
境内の丈高い樹々の上空が、夕空から夜空へと変わりつつある。
逗子駅近くの亀岡八幡宮は、鎌倉の鶴岡八幡宮と対で作られた由緒ある神社だが、いまそこでひとつの催し物が行われている。
催し物というより、これはもうお祭りといったほうがいい。
広い境内にはいくつもの屋台が軒を並べ、すでに夏の装いの多くのひとたちが、買ってきた焼きそばなり、フライドポテトなり、ビールなり、ウーロン茶をテーブルに並べ、黄昏の気配を味わっている。
ひとびとの頭上に、赤い提灯がぶら下がり、わずかな風に揺れる。
どう見ても祭り。それもお盆のころの夏祭り。
だが、いま、ここではひとつの催し物、
逗子コミュニティパーク
大人の休日
が行われている。
プログラムは朝から始まっていて、女性ボーカルのボサノバユニットであったり、ポリネシアの打楽器、スチールパンの演奏だったり、昭和歌謡の歌声。そうした緩いステージが続いている。
そして私たちが目的としたのは、
野外オペラ
そのために開始時刻の6時にわずかに早くやってきた。
半年ほど前に、やはり逗子の文化会館で行われた「ホイリゲ・パーティ」を覚えているだろうか。
オーストリアの新酒を楽しみながら、オペラの歌声も一緒に味わうという贅沢なパーティだったのだが、そのときステージで豊かなバリトンを聴かせてくれたのが、川上敦さん。
本業は経済学者、金融の専門家なのだが、大のオペラファンというよりオペラ歌手。もちろんアマチュアで、ここ湘南にあっていくつものコンサートを、ひとりで、あるいは仲間たちと開いている。
いわゆる湘南のアマチュア音楽界のリーダー的なひとで、この逗子コミュニティパークでも、歌ってくれる。
ステージが始まる前に、と私が飲み物、食べ物を買いに行き、連れがテーブルを探す。
知り合いのワインショップが屋台を出していたので、そこでワインふたつ、紙皿のパスタをひとつ、手にして境内を見回す。
混んでいるので、ステージから遠い、ものかげの席しかないだろうと思っていると、
「テリー、ここよ」
なんとステージのすぐ前、砂かぶり、リングサイドのようなテーブルで声がする。
ちょうどひと組の家族が席を立ったところだったようだ。
オペラは、「夫婦喧嘩」をテーマに、いくつかのオペラのそのシーンを取り上げて再現する。
川上さんのバリトンが夫で、藤原歌劇団から参加のソプラノが夫人。歌の夫婦喧嘩が続くのだが、祭り見物のような気分で来ているひとたちに、どこまでわかって貰えただろうか。
私でさえ、あれ、こんなシーンがあったのか、と思ったところもあったのだから。
だが、それでも川上さんと女性歌手は、いかにも楽しげに歌っている。見ている、聴く私たちが、思わず笑顔になるような、そんなときの流れだった。
神社の境内なので、音響効果などまるでない。
会場では子供が走り回ったり、外を走る車のホーンが響いて来たり、さまざまな食べ物の匂いが流れてきたり。
だが、それでも、音楽っていいな。音楽を好きなひとっていいな。
幸せになれたひとときであった。
歌い終えた川上さんや、女性歌手、伴奏の女性が、私たちのテーブルに来てくれて、ワインを飲みながらおしゃべりしていると、目の前で次のステージが始まった。
若い女性歌手とエレキギターのデュオ。
ジャズではあるが、どこかしら南米的。かと思えばオリエンタルな空気感も味わえる歌とギター。
ミセス・ガラナ
という名のデュオで、若く見えるがもう10年近くもプロとして活躍しているそうだ。最初は横須賀を中心に歌っていたというので、私たちには馴染みがなかったのかもしれない。
ところが、このあと、私たちが立ち寄ったワインバーのテーブル席に、この「ミセス・ガラナ」のふたりが偶然やってきたのだ。
彼らの友達らしいふたりも加わり、同じ部屋で、思いがけない楽しい時間を持った私たち。
帰り道、
「音楽っていいね」
「音楽が好きなひとって、いいね」
話し合っていた。
炎天下ではあったが、流れ過ぎていく風は思いがけなく快い。
ある昼下がり、私は逗子駅から住宅街に続く道を歩いていた。
湘南のこうした住宅地は、細い道が入り乱れ、目印になる建物もなく、初めてのひとには難しい。
だが、丁寧に教えてもらっていた私は、難なくたどり着くことができた。
小さな家が建ち並ぶ中にあって、ひときわ大きなその家が、川上邸。
そう。逗子コミュニティパークでオペラを聴かせてくれた、あの川上敦さんの自宅。
今日はこのお宅で、
湘南のエスプリ
と名付けられたホームサロン・コンサートが行われるのだ。
この催しは、川上さんがもう10年も前に始めたものだが、父上のご逝去、夫人のご病気などで数年の空白を持ち、今年久しぶりに再開されたという。
川上さんの音楽仲間のアマチュアが集まり、それぞれの歌声、演奏を、あるいは揃っての競演で、午後の2時間ほどを過ごそうという優雅な集まり。
今回は管楽器がメインになっていて、
Ensemble Cinq Couleur
(アンサンブル・サンク・クルール)
と、
Otto Wind Ensenble
(オットー・ウインド・アンサンブル)
のふたつのグループが参加している。
それに加えて、もちろん川上敦さんのバリトン。
プロー・みゆき・イザベルさんのピアノ演奏と伴奏。
充実した2時間になりそうだ。
個人宅としては驚きの、40畳はありそうなサロンにはいっぱいの椅子が並べられており、私が入ってしばらくするとほぼ満席になった。私が逗子駅から歩いてくるときに、追い抜いてきたひとたちも何人かいた。年配女性が多い。
そういう集まりなのかな、と思っていると、やがて始まったコンサートは、その想像を見事に覆すものだった。
始まりは、
Ensemble Cinq Couleur
5人の管楽器プレーヤーが、客席の前に並ぶ。
フルート、オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴット。
プーランク 2本のクラリネットのためのソナタ
ラヴェル マ・メール・ロア
ラヴェル 亡き女王のためのパヴァーヌ
サロンは音で溢れかえり、若く勢いのある調べとハーモニーに満ちた。
この作曲家たちの名前を知り、川上さんが、
「フランスの雰囲気を伝えられたらいいと思っています」
といっていたことに頷かされた。
休憩を挟んでの第2部は、
Otto Wind Ensenble
が横一列にずらりと並び、その迫力は大きな演奏会場にも引けを取らない。
グノー 9つの管楽器のための小交響曲
決して長い曲ではないが、4楽章それぞれに明らかな創意が施されていて、名前だけは知っていても初めて聴く私には、改めて驚愕の交響曲だった。
のちのシンフォニエッタや室内交響曲の先駆者的な作品といわれているわけも分かった気がする。
次は、みゆき・イザベルさんのピアノで、
ドビュッシー 水の反映
旧伏見宮別邸でのコンサートでも披露された曲で、みゆきさんがそのテクニックの丈を見せつけた難曲。幾度も聴かせてもらったものだ。
会場には、せせらぎから水しぶき、濁流から滔々たる流れまでが広がっていく。ピアニストの横顔を見つめ続けていた。
おしまいは、川上敦さんのバリトン、みゆきさんの伴奏で、
プーランク 動物詩集
黒人狂想曲より3曲
ラクダ、ヤギ、イナゴ、イルカ、ザリガニ、コイを皮肉たっぷりに描いたアポリネールの詩をインスパイヤした小曲集と、これも当時のフランスにとっては異国情緒あふれる外国、アフリカであったりオリエント的であったりという、やはり少々おふざけな歌。歌詞にはなんの意味もなく、昔の「タモリ語」のような数々。
道理で、聞いていてもわかる言葉はひとつもなかった。
湘南のエスプリ、の打ち上げが逗子の居酒屋で行われ、参加しませんかといわれて喜んで加わった。
居酒屋の2階の宴会室のような部屋には、すでに20人ほどのひとが私たちを待っていてくれた。
さっきまで川上邸で、豪勢な音を鳴り響かせてくれていた音楽家たちが、いまはすっかり庶民の顔になり、くつろいでいる。
全員が知り合いというわけではないので、ひとりひとり立ち上がって自己紹介。全員がアマチュアで、公務員や会社勤め、自営業。東京、埼玉、茨城などに住んで、いくつかの演奏グループに属していることがわかった。
「日曜音楽家です」
といっていた。
ただひとり音楽家でない私は、
「通りがかりのものです」
といったが、川上さんが、
「ものを書く方です。文化人です」
と訂正してくれた。
文化人、ねぇ。
若い音楽家たちのノリは面白く、楽しく、素晴らしい。
すっかり酔った帰り道、
「音楽っていいね」
「音楽が好きなひとっていいね」
私たちはいい合った。
しばらく前にも同じことをいったはずだ。