花火の記憶

まったく花火の写真というのは、どうしてこれほど難しいのだろうか。

ドーン、パッ、と大きなのが上がったとみて、すかさずシャッターを押すのだが、モニター画面を見ると、まだ花開く前だったり、花が夜の闇に消えてしまったあとだったり。

だからここに写っている花火の数々が、あの花火大会のようすだと思わないでいただきたい。ほんとうはもっともっと、この数倍、数十倍も豪華で、華麗で、素晴らしいものだったのだから。

 

花火の記憶 というわけで、花火大会にいってきた。

いや、そうではなく、私の部屋のベランダから、ビール片手に眺めたのだから、花火大会がやってきた、というべきだろう。

なにしろ、去年からしつこく自慢しているように、私の部屋は、葉山の森戸海岸に面していて、花火はその海岸の100メートルほど沖合の船の上から打ち上げられるので、まさに見物のためのロイヤルシートのような場所だ。

眼下の海岸には、わらわらとおびただしい見物客が、ハンディな椅子に坐ったり、砂浜に直接腰を下ろしたりしているのに、私は、自分ちのベランダで、ただひとり、ゆったりとくつろいでビールなどを口にし、ゆがんだ優越感とともに見下ろしている。

海から涼しい風が吹き、見物客たちの歓声も交じり、いい気分で約1時間の花火を楽しみながら、私はこれまでに見た数多くの花火を思い出していた。

 

アメリカで、花火大会というと7月4日と決まっている。

ジュライ・フォース。独立記念日。

この日の夕方から夜にかけて、全米各地で一斉に花火が打ち上げられる。都会や、海、川、湖のそばばかりではなく、どんな山岳地帯でも、砂漠地帯でも、花火大会は行われる。

アメリカに16年間暮らしていた私たちは、その16年、毎年必ずジュライ・フォースの花火を眺めていたことになる。

カリフォルニアのパームスプリングスの10年間は、自宅から少し離れたデザートからゴルフ場の向こうに上がる花火を見たし、サンタローザ・マウンテンのちょっとした高台に上がって、一面に広がるデザート地帯の中程から打ち上げられる花火を、車の中から見たことからもある。

ニューヨークに移ってからの3年は、トライベッカの新しいアパート・ビルの屋上から。続く2年は、イーストビレッジのコンドミニアム、ラザフォード・プレースのクラシックな屋上から、マンハッタンに上がる花火を、摩天楼越しに眺めた。

この16年間の花火大会で、私の隣には必ず未紗の姿があった。未紗は、立っては私の腕につかまり、ベンチに坐っては膝に猫のミンミンを抱いて遠い空を眺めていたものだ。

 

日本に帰って3年たち、トヨスの高層マンションに移ってからは、近くのララ・ポートの屋上から、レインボウ・ブリッジの方角に上がる花火を見た。

 

そして葉山に越してきたわけだが、御用邸近くのいわゆる“サヤマのゴヨーテー”からは、一色海岸の海の家、ウミゴヤで、2回、遠くの花火を眺めたものだが、そのときに見た花火が、去年、今年と見た森戸海岸の花火だったのだ。

 

だが、一昨年の一色海岸、去年の森戸海岸と、未紗は私の隣にはいなかった。

森戸に近い施設に入っていて、ほかの入居者たちと一緒に、施設の2階ラウンジの大きな窓越しに見物していたのだ。

私たちは2年続けて、別々に花火を見たことにある。

そして今年、未紗は葉山の花火大会を見ていない。

 

花火の記憶 もうひとつ思い出した花火大会。

もう十数年前になろうか。

レンタカーでイタリア国内を自由気ままに走り回っていた私たちは、そのときリーバという町にいた。
北イタリアの湖水地帯の東。といってもコモ湖やマッジョーレ湖からは遠く離れてベローナの北に大きく広がるガルダ湖。その北の先に小さな港町。それがリーバ。

奇形ともいえる断崖絶壁の真下にあり、崖と湖に挟まれたリーバで、その夜偶然花火大会が行われたのだった。

私たちは大喜びで出かけていったのだが、さすがイタリア。ただの花火大会と違い、打ち上げ花火、仕掛け花火のほかに、湖上に船を浮かべてのオペラ公演も組み込まれていた。

といっても花火の音とオペラのアリアは、あまりマッチしたとは思えなかったが、隣にいた年老いた紳士から、花火は遠い昔東洋から伝わってきたものだ、と教えられた。

そして、花火をイタリア語では、アルティシアーレ・フッコ(Articiale fucco)というが、このようなきれいな花火は単に、フィオーレ(Fiore)。花、とだけいうことも知った。未紗はその知識を、早速アメリカの友人に葉書で知らせていた。

 

葉山の花火大会のベランダに、プーリーもドゥージーもいなかった。

前日から、ペットホテルに二泊三日のお泊り。犬は、花火のようなわけのわからない大音声を極端に怖がるので、無理に見せたり聞かせたりしたら性格まで歪んでしまうというので、昨年に続いての避難、疎開だった。

その疎開先に、ペットシッターの車で移されるとき、車の後部ウィンドウに鼻を押し付けるようにして、見送る私を見ていた2匹の表情は忘れ難い。

このまま会えなくなるのだろうか。自分たちは、捨てられるんじゃないだろうか。そんな恐怖と不安が、4つの目には明らかに浮かんでいた。

もし来年も、この地で花火大会を迎えるなら、私も一緒に疎開しようか。

 

ずっと一緒にいたのが、離れ離れになることほど、つらいものはない。

 

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