「やまねこ」な夜

「やまねこ」な夜 「佐枝さんのとこに行ってみない?」

そう誘われて、ふたりで出かけた。

佐枝さんのとこ、というのは山根佐枝さんという女性がやっている、小さなカフェ「やまねこ」のこと。

3年余り前まで私が住んでいた一色の、御用邸のすぐ傍で、雑誌編集者であり、サーファーでもある佐枝さんが、若い女の子とふたりでささやかに開いている。

私が葉山に越してきたのが6年前だが、ちょうどそのころ「やまねこ」もオープンし、近所だったこともあって、しばしばそのカウンターの椅子に坐るようになった。

変わった営業形態で、金曜から月曜までの4日間しか開かないし、しかも、ビールやワインを飲ませるバーの部は、土曜の夜だけで、その形はいまも変わっていない。

だから、みゆきさんが、行ってみない? といったのは土曜日のことだ。

森戸海岸に越してきてからも、回数こそ大きく減ったものの、私の「やまねこ」行きは続いており、そのころの私は、未紗が施設に入っていたこともあって、ほとんど引きこもりの日々。

「やまねこ」な夜 近くの店にはまず行かず、小さな部屋で犬を相手に酒を飲む毎日。

そんなときでも土曜の夜、バスで行ってタクシーで帰る「やまねこ」は、ただひとつに近い安らぎの時間だったのかもしれない。

だから未紗がいなくなって、少しずつ引きこもりから脱してきてからも、ときどき出かけていく。

 

「やまねこ」は、靴を脱いで上がる。

私が面倒なスニーカーに手間取っているあいだ、サンダル履きのみゆきさんは古民家風なガラス戸をあけて入る。

「お久しぶり」

「こんばんは」

女性ふたりの、高い声が響く。

私が続けて入ると、

「あら~、おじさん」

元気いっぱいな女の子、イクちゃんがカウンター奥の小さなキッチンから顔を出す。

「いつもご一緒なのね」

「ご一緒なんですよ」

みゆきさんも、「やまねこ」にすっかり馴染んできている。

 

「やまねこ」な夜 みゆきさんを、初めて「やまねこ」にいざなったのは、さほど遠い昔ではない。

未紗が逝ってからも、ひとり、を続けていた私だが、それでも夏の間は犬を連れ、海の家「ノアノア」で、夏が終わると近くのレストラン「エスメラルダ」のテラス席で、足元に犬を坐らせてビールを飲んでいた。

もちろん誰と話すわけでなく、たまの話し相手は、一緒に散歩してくれるペットシッターの治美さんくらいだった。

そのころ知り合ったのが、みゆきさん。

大きな犬を連れて、森戸の浜を歩くみゆきさんは例えようもなく美しく、ただ行き過ぎるだけだったし、どこの国の言葉で話していいのか、わからなかった。

だが、みゆきさんが、誰かと日本語で話しているのを聞き、

「シェパードですか?」

声をかけてみた。

「シェパードのミックスなんですよ。ストライプって名前なんですけど、スーちゃんです」

そんな話をするようになって、幾度かそれが続くようになって、「ノアノア」の私のテーブルにスーちゃん連れで立ち寄ってくれたりするようになって、私の著書を読んでくれるようになって。

 

 

「やまねこ」な夜 「ノアノア」から「エスメラルダ」に移ってしばらくたったころだったろうか。

「御用邸の傍に「やまねこ」という店があるんですよ。なかなか素敵な店で、一度ご一緒しませんか」 となって、別々のバスで行ったのが、みゆきさんの「やまねこ」初体験。

私としては、デートとか、そういった気持ちはまるでなく、新しく知り合ったひとを、自分の好きな店に案内したいだけだった。

みゆきさんのことを、ほとんど知らなかったのだ。

だが、ずっとあとになって、みゆきさんはこういった。

「わたし、ものすごく緊張していたのよ。テリーのお友達に嫌われないか。無視されないか。受け入れてもらえるかしらって」

こうもいった。

「佐枝さんはやさしかったけど、イクちゃんはちょっと怖かった。だから、わたし、固くなっていたでしょう」

そうは感じなかったな。

実は、私としては、あの夜初めて、みゆきさんの意外性を知ったのであった。

 

「やまねこ」な夜 私より少し遅れて「やまねこ」の入り口をくぐったみゆきさんは、私の隣に坐るや、初対面の佐枝さんに、

「ナマください」

生ビールを注文した。

「すみません。生ビールはおいてないんですよ」

緑の瓶がお洒落なハートランドがメインのビール。

そしてみゆきさん。カウンターの上に積まれたおにぎりを発見し、
「わ、おいしそう。これ、ください」

プロムというのか、沖縄のゴーヤー・チャンプルーなどに入っているコンビーフのような肉を海苔で止めたおにぎりを、ハートランドで食べ始めたのだ。

海の家ならともかく、こうした少しお洒落な場所では、ワインとか、カシスソーダ、せいぜいモヒート。そうしたものしか飲まないイメージだったから、私の先入観はガラガラと崩れたのであります。
のちのこのことを話すと、みゆきさんもいい返す。

「テリーだって、オペラしか聴かない。ワインしか飲まない感じだったわよ」

いま、みゆきさんはビールを飲みながら、ルールもよく知らないプロ野球を一緒に見てくれる。

 

「やまねこ」な夜 イメージを崩されたのは、そのときばかりではない。

「ノアノア」では、犬のことくらいしか話がなかった。

犬の食事の話になって、私が、鶏の胸肉を茹でて、皮を取って、ドライフードに混ぜる、というと、目を輝かせて、

「じゃ、いつもトリカワポン酢が食べられますね」

 

みゆきさんにとって、初めての「やまねこ」の夜、浜ですれ違っていたころのみゆきさんについて、私はこんな感想をいった。

「イタリア映画の女性みたいでしたよ。例えばヴィス コンティの『ベニスに死す』のシルヴァーナ・マンガードのような」

みゆきさんは笑って聞いていたが、みゆきさんが中座したときに、イクちゃんがいった。

「佐山さんって、ああやって口説くんですね」

口説いたのでなく、本当にそう思っていたのだ。

幾度かイメージは崩されはしたが、いまでもその思いは変わらない。

 

「やまねこ」で、みゆきさんは佐枝さん、イクちゃんと、ハロウィンでどんな仮装をしようかなどと盛り上がっている。私は付き合わないよーだ。

 

「やまねこ」な夜

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