人生の一大事!
新たなる記念の日
一月も半ばを過ぎたその日は、私たちにとってかつてないほど大切な一日になるはずだ。
例えば結婚記念日、誕生日、といった日と同様、これからもしばらくは続くだろう私たちの暮らしの中で、いつまでも語り継ぎ、思い出から消え去ることのない一日。
それをナニ記念日と呼ぶかは、この文章を書き終わったのちに考えるとしても、要するにそれほど大切で、感動的な一日を、私たちは迎え、過ごしたのであった。
それは、みゆきのひとことから始まった。
「ねぇ、テリー、お願いがあるんだけど」
みゆきがいったのは、年が明けてしばらくたったある日のことであった。
「今度の針生先生のお茶会が、「初釜」になるんだけど、それにテリーも出てほしいの」
まさに青天の霹靂。えーっ!という話だった。
みゆきの父親はいうまでもなく世界を舞台に活躍していたピアニストでスイス人。
母は日本人だが、ヨーロッパの航空会社のアテンダント、エアホステス。昔風にいえばスチュワーデス。
結婚してみゆきが生まれ、日本に住んではいたものの、しばしばヨーロッパ各地に家族ぐるみで出かけ、みゆきは現地の幼稚園、小学校に短期入園、入学させられるという暮らしを続けていた。
家庭は当然、完全なヨーロッパ風。
そんな日常にあって、みゆきが日本風のさまざまなこと、お祭りの縁日や正月のイベント、しきたり、長じてはお茶、お花といったお稽古事、文化に引かれていったのは、多分にみゆきの「ばぁば」、母方の祖母の影響、感化によるものだったろう。
海外、国内のコンサートなどで不在の多い両親の留守中、みゆきを育て、一緒に遊んでくれたこの祖母の、子供心に残したものは大きいはずだ。
そうして心に育った日本の文化に対する関心は、のちにアメリカで暮らすようになって花開いた。
アメリカの、しかもウエストコーストという、ヨーロッパとも、ましてや日本とは大きくかけ離れた環境は、みゆきの心にこれまでには抱くこともなかったホームシックを芽生えさせ、それが遠く離れた日本文化に心の回帰をもたらせたのかもしれない。
そんなカリフォルニアで出会ったのが、針生先生。
やはり日本人家族とアメリカに暮らしていた婦人だが、もともと裏千家の茶名を持つ茶人。
ご主人の仕事の関係で、アメリカのほかの都市に暮らしていたが、カリフォルニアに移ってきてから、日本人の奥さんたち、娘さんたちにお茶を教えるようになった。
住宅地にある自宅のリビングに、そのときだけタタミマットを敷いて茶室とし、庭の芝生に毛氈めいた敷物を開いて野点の会を催す。
みゆきはその「針生お茶会」の数少ない生徒、弟子のひとりだった。
そしてそこで、茶道という文化に一気に引き込まれたのであった。
やがてみゆきは日本に帰り、葉山に住んでピアノ教師、女子高の音楽の先生、通訳などで生きるようになり、針生先生も日本にいないこともあって、しばらくはお茶から離れた日々を送っていた。
そして私と運命的に出会い、一緒になったのだが、やがて針生先生一家もアメリカから帰ってもとの横浜に暮らすようになり、みゆきのお茶も再開したというわけだ。
針生先生のお茶のお稽古、といっても、いまのところ生徒、弟子はみゆきひとり。
車で一時間足らずで通えるとあって、月に一、二回はいそいそと通っている。
ピアノや学校などで忙しかったのが、私との結婚で余裕ができ、お茶、ヨガなどの趣味に回せる時間が増え、生き生きと輝いているみゆきのそんな日常を、私も自分のことのように喜び、見守っていたのだった。
ところが、そのお茶の会に、しかも「初釜」という大切な席に出てほしい。いや、出なさい、という。
お茶を嗜む、しかも本格的な裏千家を、という妻を誇りに思い、稽古から帰った夜、その日習ったこと、新しく得た知識、教養、スキルを嬉しそうに話すのを楽しく聞く。
そんな自分を、よくできた、穏やかな「ご主人」と感じて、いい気分でいたのだが、本格的なお茶会に、しかも「正客」として参加するとなると話は別だ。
大変なことになった。
私を襲ったのは、ちょっとしたパニックだったのだ。
お茶とは、まったくといっていいほど無縁に生きてきた長い人生でした。
一応、社会的な立場もある程度はあった時代も通り過ぎる中で、いくつかのお茶会、しかもかなりのグレードの席にお招ばれすることはあるにはあった。
だが、その都度なにかの理由、口実を作って、あるいは、
「不調法ですので」
と正直に謝って辞退させてもらっていた。
だから、もうないだろうと思っていたのだが。
実は、去年の秋口だったか、葉山の「しおさい公園」の茶室で、地元の芸術、美術、文筆関係者を招いてのお茶会があり、それには参加した。
だがそれは「アート茶会」と名付けられた一種のイベントであって、古式に則った茶会とはいえなかったし、私もただ、見様見真似、隣のひとの真似をしていただけだった。
だが、それなりにいくつかの有意義な発見もあり、稀有な体験として、いまも印象に強く残っている。
もうひとつの、実は。
私の母親は、これはもう「有閑マダム」のパターンとしてお茶を習い、父親にねだって自宅の庭に本格的な茶室を作らせた。
父の俗っぽい見栄もあって、その茶室は躙り口も、水屋も、炭囲炉裏もある本格的なものだったが、私が確か高校二年生のときだったか、母が催したお茶会に、なんと「正客」として坐るように命じられたのだ。
よほど人手が足りなかったのかもしれない。
「なにもいわなくてもいい。なにもしなくてもいい。ただ黙って座っていなさい」
そういわれて、本当に、ただ黙って座っていた。
なにしろ、六十年余りも昔の話だ。
足がしびれたことくらいしか覚えていない。
あ、そうだ。
もうひとつの、実は。
三十歳になるかならないときだった。
そのころ私はいくつもの雑誌に書きまくっていたが、中に「青春小説」といわれるジャンルがあった。
そのひとつの作品に、確か金沢を舞台にした話の中で、主人公の女性がある老人に茶を入れてもらうシーン。
静かなお点前を通して、心の悩みがゆっくりとほぐれていくという、よくあるオハナシなのだが、そこに、
『切り柄杓の、静謐をなぞるほの白い指先』
など、乏しい知識と記憶による文章を、得意げに書いている。
「よくご存じですね」
と、一部では評価されたものだが、その実、「切り柄杓」という作法については、なにも知らなかったのだ。
お茶席には、亭主が釜の正面に坐ってお茶を点てる「風炉」の点前の作法と、のちに、といっても千利休のころだといわれているが、「炉」近くに集まって、家族的な空気の中でお茶を楽しむ「炉」の作法があり、「切り柄杓」は、「風」を通す意味から寒くない季節に開けた茶室での「風炉」作法。
「炉」で行われるのは、大きな動きの少ない「立て柄杓」。
などということは、ずっとあとで得た知識。
だから、私の小説の描写は、間違いだったことになる。
「よくご存じ」
ではなく、
「わかってませんねぇ」
と、いわれるべきだったのだ。
私のお茶の経験といえばこの程度のものだったので、お茶会に、しかも「正客」として坐れという頼み、というか指示は、
「針生先生が、是非ご主人に、とおっしゃってくれているのよ」
となればなるほど断ることは不可能だった。
針生先生が、是非ご主人に、といってくれたのには、ある茶碗のエピソードがあったそうだ。
日本に帰ってきて、私と出会い、短くはあってもこの先、共に生きる気持ちになっていたみゆきは、あるときひとつの茶碗に出会った。
特に高価なものではなかったし、立派な共箱があるわけでもなかったが、みゆきはなぜかその茶碗に心惹かれたのだった。
この茶碗で、あのひとにお茶を入れてあげたい。
そう思い、高価ではないといっても、共箱もあり、当時のみゆきには破格ともいえる金額で購入した茶碗だったが、実際にお茶を点ててくれたのは、次のひな祭りのこと。
小さなひな人形がいくつか並ぶ部屋で、緊張した面持ちで点ててくれたみゆきが、なぜあれほど嬉しそうだったのかは、ずっと後になってわかった。
それが、針生先生のお茶会に「主(おも)茶碗」として現れ、みゆきの手でお茶が点てられることになったのは、そうしたエピソードを知る先生の計らいでもあったそうだ。
実はこの茶碗、針生先生の鑑定によると、みゆきが思っていたよりはるかに立派な銘品で、みゆきの審美眼の証でもある、ともいう。
その茶碗で、私にお茶を点てたいと願い、私には、
「自慢の夫をお見せしたいのよ」
などと、殺し文句をいわれた日には、ね。
覚悟を決めたら、私としてはやるしかない。
やることはやる。
アマゾンで、三冊の本を買った。
お茶のおけいこ 29
裏千家茶道
茶席に招かれたら
ムック 美術フォーラム 21
特集:茶の湯 スキの芸術
もうひとつ、雑誌・ブルータスのお茶と茶室の特集号も注文したが、これは当日に間に合わなかった。
こうして一夜漬けのお勉強もほとんど頭に入らないまま、素晴らしい天気のその朝、私は横浜に向けてひとり車を走らせたのであった。
みゆきはその日、早朝からヘア、メイク、着付けの先生に来てもらって大忙しで、やはりこの日の席に招いてもらった友人のMさんの車で来るという。
だが、横浜の複雑な住宅街にある針生先生宅に到着したのは、私のほうが早かった。
車の中で待つ私の隣に車を止めて、降り立ったみゆきとMさん。
明るい光の中で、和服姿のふたりの女性の、なんと際立って綺麗だったことか。
特に、背が高すぎて和服はどうだかね、と思い込んでいたみゆきの、ちょっと恥じらいを包んだその姿に「ご主人」、惚れ直したものだ。
針生家二階の茶室。
異例の、座布団、を出してもらって「正客」として、「膝を崩して」坐る私。
次席、といわれる隣はMさん。
そして、茶釜のそばで畏まってのお点前は、みゆき。「亭主」としてお茶を点てる。
半東(はんとう)さんといういわゆる指導係、ディレクターは針生先生。
少々硬さの見られるみゆきとMさんに較べて、なんと自然で穏やかで、物静か。それでいて華やいだ和服姿。
白のタートルネックセーターに黒いニットジャケット。黒のコーデュロイパンツ姿の私は、ただただ身を固くしておりました。
なにが起こったのか。
なにが行われたのか。
よくは覚えていない。
「お服加減はいかがですか」
というみゆきに、
「結構なお点前で、美味しくいただきました」
と、本で読んだままに応えた自分の声を、わずかに覚えている。
緊張と感慨のうちにお茶席は終え、うまくいったのだろうかと、不安と共にと肩の力を抜いたものの、階下で、さらにセレモニーは続く。
「初釜」は正月行事のひとつなので、雑煮から始まる正月の料理、お膳が、お神酒と共に待っている。
針生先生お手作りの料理を、一種の講話といえるのか、先生の話を聞き、私たちもいくつもの知識を吸収し、おしまいには年配者同士の雑談に変わり、「初釜」は無事に終了したのであった。
帰途は、私の車。
ふたりとも疲れてはいたが、胸が高ぶっており、まっすぐ帰って楽になろう、という気持ちにはならない。
横横道路から逗葉新道を通って葉山に出たあたりでは、
どこかに寄って、私たちのこの姿をいろんなひとたちに見てもらおう。
私たちの、この高揚を多くのひとに伝えたい。
という気分になっていたが、私たちを迎える景色のほうが不思議に変わってきたのだ。
逗葉新道の、まだ出口にもならないあたりから、沿道に多くのひとの群れ。
道端にずらり、ぎっしりと並んで、前を通る車を見ている。
ひとの群れ、ひとの波は、葉山の町に入ってさらに増えた。
気のせいに違いないが、誰もが、私たちの車を覗き込んでいるように感じられる。
しばらく走って、気がついた。
「そうだ。今日、天皇陛下がお見えになるんだった」
天皇、皇后両陛下が、葉山の御用邸にいらして、数日間ご滞在になる、という話を思い出した。
「えーっ!わたしたち、両陛下をご先導してるの?」
畏れ多いので、どこかで道を変えようとしても、私たちの行く道は、御用邸に向かう道と完全に一致している。
実は、誰も私たちを気にして見てはいないのに、たくさんのひとの視線を痛いほどに感じ、なぜこんなに見られるのかと考える。
そうか、助手席のみゆきは着物姿。
派手なアルファロメオに、綺麗な和服の女性。
ちょっと見には、ダークスーツにしか見えない黒と白のおじさん。
これは、ただものではないな。
そう感じられているに違いないと、自意識過剰な私たちは、なんとかうちの近くまで走って横道に逸れ、ときどき入るレストランの駐車場に、無断で車を入れて、表通りに出る。
いつも会っているような、見慣れたようなひと達が、道端にずらりと群がっている。
随所に立つ、わかりやすい私服の警察官が愛想よくひと群れの整理をし、日の丸の小旗を配ってくれている。
私たちも、小旗を手に群れの中に。
背が高いので群れのうしろでも充分に拝見できるのだが、わがみゆきは、なんとするすると最前列に出ている。
ひとりだけ和服姿なので、特別なひとだと思われたのだろうか。誰も文句はいわない。
皇族おひとりが、お迎えにいらしている?
まさか、ね。
私たちのすぐ前を、両陛下のお車が静かに通り過ぎていく。
開いた、こちら側の窓から、美智子皇后がゆったりとお手を振ってくださっていた。
すぐあとで、みゆきが感動の面持ちでいう。
「美智子さま、にっこりなさってたわよ」
「素敵なお方ねぇ」
涙ぐむ感動を、抑えかねているようすだった。
まっすぐに帰るのはもったいない。
この感動を、もっともっと味わっていたい。
そして、この日の私たちの姿を、多くの、いろいろなひとにも見てもらいたい。
たくさんのひとに、この幸せを分かち与え、一緒に喜んでもらいたい。
そう思っているみゆきの、聖女のような無垢な心が素直に伝わって、ひねくれものの私までそんな気持ちになり、抑えられず、「ミユキハウス」のすぐ近くまで来ていながら、さらに車を進めて、海岸通りに出、「エスメラルダ」の駐車場に入れる。
そのまま浜の散歩道をゆっくり歩き、海の香りを胸いっぱいに吸って森戸神社へ。
境内の石垣から海を眺め、本殿にお参りし、改めて「エスメラルダ」に戻ったが、生憎月曜日でお休みだったので、隣のサンドイッチショップに。
居合わせたデザイナーの由美さんに、店のスタッフや、通りかかった顔見知りの客たちに、
「わぁ、綺麗!」
「素敵ねぇ!」
たくさん褒められて、みゆき、嫣然と微笑む。
妻がみんなに称えられるうれしさ。
だが、まだまだ。
私たちの気持ちは、もっと輝いている。
すぐ近くの「テリーズバー」に進み、隣のレストラン私たちの聖地でもある「ラ・プラージュ」でも顔見世。
マンションの管理人、Yさんに写真館風な記念写真を撮ってもらい、ここでも多くの、
「素敵!」
「綺麗!」
をいただいて、それでも足りず、いったん帰ったものの、着替えることはなく、そのまま、
「この姿では、和食でしょう」
と、「まさきち」へと続いた。
長い、長い一日だった。
ここまでくると、この日が私たちにとって、大切で、重要な一日になったことがおわかりだと思う。
いやぁ、よかった!
いやぁ、幸せだった!
翌日、テレビのニュースで、ひと夜過ごされた両陛下が、御用邸裏の浜、鼻が埼にお出になって、ひとびとのご挨拶をお受けになっているシーンを映し出していた。
それを見たみゆきは、
「昨日のわたしたちと、お揃いみたいね」
さらに、みゆきはいう。
「わたしたち、絶対にご縁があるわよ」
その理由は、私が六年前に葉山に建てた家が、御用邸のすぐ近くだったことから、軽い冗談で、
「サヤマのゴヨーテー」
などと書いていたこと。
そして、私たちが晴れて結婚し、新しい戸籍を作る際に、本籍地を、
神奈川県三浦郡葉山町一色○○○番地
としたこと。
御用邸の住所をお借りしたのであった。
そういわれて、私も思いついた。
天皇陛下が地方にお出ましになることを「御幸」といい、「みゆき」と読む。
そうか。そんなご縁もあったのか。
みゆきは、夢を見ているような口ぶりで、こんなことまでいう。
「天皇陛下は美智子さまのことを、
ミィ
とお呼びになっているんじゃないかしら。テリーみたいに」
まさか。
あとになって、みゆきがしみじみといった。
「あのお茶席で、お茶を点て、家族的なお茶室でテリーに服んでもらえたことが一番素晴らしいことだったの」
「お茶を美味しいといってもらえてうれしかった。
そのためにずっと毎日家でお茶の練習をして、着物も用意して、そのご褒美が、テリーに喜んでもらえたことと、両陛下にお会いできたことだと思うの。
そして、両陛下のように、いつまでも仲睦まじくいたいと思ったら、涙が出てきたの」
こんなみゆきと一緒にいられたことが、そんな日を一緒に迎えられたことが、私がこの日を「記念日」とする理由です。
こんな日が、もう一度来てくれればいいのに。
いまひとたびの
みゆきまたなむ
「みゆき」は、「御幸」と「みゆき」に掛けているとは、いわずもがな、かな。