幻想の世界、神の世界
例によって「エスメラルダ」だが、このカフェレストランは、私たちにとってある種の情報提供の場でもある。
葉山で行われる小さな、そしてさまざまなイベント、ホームコンサート、ミニ美術展などのポスター、チラシが、化粧室や、カウンター置かれ、そのほとんどが、ちょっと行ってみようか。見てみたいな、と思わせるものばかり。
少し前には、私の書いた「葉山 喜寿婚の浜」の本もパンフレットも置かれていたし、みゆきの小さなコンサートのお知らせもされていたことがあった。
そんな貴重な場所に、一枚の不思議なお知らせが飾られていた。
MARIA はるな 展らん会 オープンハウス
ほとんど手書きのそのチラシには、ひとつの絵が浮かぶように描かれている。
不思議な絵だった。
花の群れに浮かぶように描かれているのは、ふたりの少女なのだろうか。若い恋人たちなのだろうか。
それとも、花から舞って現れた妖精なのだろうか。
近くのアトリエを兼ねた自宅で、この「展らん会」は行われているらしい。
「エスメラルダ」の店長、麻実子さんがいった。
「うちの前や浜を、ちょっと変わったファッションでゆっくり歩く女性がいるでしょう。あのひとがはるなさん」
そういえば、私も幾度かは見かけている。
日焼けを恐れるのだろうか。世間の空気をなるべくさけようとするのか。
あるいは、蝶のように、静かな風に舞っているのか。
全身をふんわりと包む薄い衣装で、ふわっと歩いていた。
声を聴いた記憶もあるが、きっとそよ風のような声だったろう。
そのはるなさんの、小さな個展が開かれている。
森戸海岸に近い住宅地のさなかにMARIAはるなさんの家はある。
ほとんど四角な、三角屋根を持ち、ファザードの上に小さな丸窓を見せるその家は、淡いはちみつ色、ミエーレに包まれている。
3段の小さな石段を上がり、これも小さなドアを叩くと、すぐにはるなさんが現れた。
私たちをそこで待っていてくれたようだ
「いらっしゃい。ようこそわたしの世界に」
というような言葉に迎え入れられたそこは、いきなり板敷きの広間。
広間というには小さな空間だが、そこに、小さなソファ以外に家具らしいものはほとんどなく、そこここに数冊の本が積まれていたり、床壁に直接いくつかの絵が立てかけられていたり、そうかと思えば、子供のおもちゃのピアノが置いてある。
そして、周囲の白木の壁に、これも小さな、本当に小さな、絵葉書のような絵が飾られているのが、アトリエらしさを支えている。
この家、この部屋。そのものがはるなさんの作品であり、魂なのかもしれない。
そう感じさせられた。
絵は、版画あり、水彩あり、油彩あり。
小さな風景が、人物画もあれば、絵の具をぼうと滲ませた一枚も、装飾タイルのひとつのような淡いデコラティブな小品もある。
そのどの一枚にも、現れ方は違っても、はるなさんの天使のような、妖精のような心が眠り、あるいは浮かんでいた。
部屋の奥に続く、ここが本当のアトリエなのだろうか、小さな部屋にも、多くの絵が眠っていたし、小さな階段を上がった2階には寝室もキッチンもあるのだが、そこにも絵はあふれ、生活感などかけらもない。
ここではるなさんは、妖精のように絵を描き、天使のように、蝶のように生きている。
はるなさんとみゆきは、すっかり気が合ったらしく、小さな声でいろいろな話をしていた。
その話の中に、はるなさんが大学で須賀敦子の薫陶を受け、そのあとを追うようにイタリアに渡り、ヴェネツィアの大学で学んだと聞き、私は身を乗り出した。
エッセイストであり、詩人であり、翻訳家であり、宗教家でもある須賀敦子は、私の敬愛するひとり。
特にエッセイに関しては、文体、感性が似ているともいわれた。
私にとって、これは稀有なことなのだ。私に似ているというひとはいても、私が似ているといわれることは少ない。
はるなさんは須賀敦子のなにを受け継いだのだろうか。
みゆきが、おもちゃのピアノを弾いたりしてすっかり長居をし、私たちは小さなドアを出た。
はるなさんが見送ってくれた。
帰り道、私たちはほのかな香りを感じていた。
セージの香りであったろうか。
葉山の近代美術館に行った。
堀文子 展
「白寿記念」とうたわれている。
堀文子は、もう白寿、99歳になったのか。これほどの活躍をしているのに。
という感想ともうひとつ。
堀文子は、あれほど昔から第一線にあって、まだ健在なのか。
この相反する思いは、広い会場を回るうちに、ますます強固なものとなった。
14歳で発表した作品には、子供とは到底思えない熟練の筆致が感じられるし、1938年の作品では、あの時代にこれほどのものが描けたことへの驚き。
昭和13年ではないか。
日本が戦争に向かって突き進みかけていた時代だ。
それなのに、この耽美。
昭和23年の作品もある。
鮮やかな絵の具をたっぷり使い、のびやかに静けさを謳う。
豊かさの中にいたひとだと思った。
十代から白寿まで、ほとんど休むことなく描き続けたひとなので、その作風は実に多岐にわたって、変わり続けてきた。
堀文子といえば、日本画家といわれるが、そうした作品もなくはないが、フランス印象派的なもの、英国のラファエロ前派風あり。
日本昔話を思わせる作品。年配者なら誰もが通り抜けた「フレーベル館」の「絵本」。
そうかと思えば、冬の高原の凛とした枯木立。
春の野を彩る花々の息遣い。
ひとり中東を旅して描いた、フランス映画風な異国情緒。
だが、堀文子を語るとき、こうした時系列を語っても意味はない。
まったく順を無視して、いくつもの時代の作品をアトランダムに並べてみても、そこにはひとつの「堀文子」という世界。世界観、人生観、死生観が、凛として(この言葉、はるなさんにも使った)貫かれているのだ。
堀文子のこの心、特に死生観は、私にはひしひしと迫ってくるのだが、絵画からそれを伝えるのは難しい。
幸い堀文子は、絵とともに多くの言葉を残している。
絵に描いた心を、言葉にしている。
いや。心に感じる生き方を、絵で表現している。
『自由は、命懸けのこと。
群れない、慣れない、頼らない。
これが私のモットーです。』
私もそう思って生きてきた。
『群れをなさないで生きることは、現代社会ではあり得ないことです。
何をするにしても誰かと一緒にしなければならない。
それを私はしないよう道を選んで、私のような職人にはよかったと思います。』
『(みんなひとりが寂しいといいますが、人といれば本当に寂しくないのかしら? 人はそもそも孤独なんです。)
私は人に迷惑をかけますから、ひとりを選ぶんです。
私には習慣性がないんです。
同じことの繰り返しが嫌いなんです。』
その通りだと思う。
私が歩いてきた道は、間違えていなかった。
それを感じた。
『(反省なんてしたらダメなんです。反省したら前のところに留まってそこから上には行けないのです。)
反省は、失敗したことを叱るお説教みたいなものですから、
これから進む前に戻れということになるわけでしょう。
反省なんかしないで、自分のことを「バカ」ってしかるのがいちばん。』
100点を超える作品群の中ほどに、
「ヒマラヤ夕映え(マチャプチャレ)」
「ヒマラヤ月明(アンナブルナ)」
がある。
これを最後に観たら、私はそこにひれ伏したかもしれない。
そこには、神、がいた。