大改造、過激に進行中
すごい!
我ながら、すごい!
ね、驚くでしょう。
私が、なんと、酒をやめたのだから。
もう、一か月余り、一滴の酒、ビール、ワインの類を口に入れていない。
自分が、こういうことができるとは思ってもいなかった。
こんな風になりたいと、考えたこともなかった。
生涯酒を愛し、いまでいえば妻を愛し、自分の美意識と価値観を愛し、そして、心地よい酔いの中で、静かに死んでいきたい。
酒仙といわれ、かたときも酒を手放すことなく、それでいて美しい作品を残して去っていった若山牧水のように。
そんな私が、ぴたりと酒をやめたのだ。
それも、厳しく命じられたのでも、酒が飲めないほどの健康状態になったのではなく、身体的な数字に大きな問題があったにしても、医師にも、
「やめるほどの問題ではない」
といわれたにもかかわらず、私は自分の周囲から酒を遠ざけたのであった。
酒をやめた理由、きっかけは、前回も前々回も書いたが、久しぶりに受けた血液検査で、血糖値が異常に高いのと、肝機能がかなり衰えていたからだった。
これまでの酒量と年齢的なことを考えると、さほどの異常ではないのだが、
「お酒、減らしましょう。わたしたちのために」
というみゆきの言葉もあって、私はきっぱりと酒をやめた。
少なくとも、しばらくのちに控えている血液検査の結果が出るまで、控えるとか、減らすというのではなく、ぴたりとやめる。
酒を断って、わずか数日で、驚くべき反応が現れた。
それまで、毎日のように襲い掛かってくる、胸の苦しみ、痛み。
逆流性食道炎、つまり激しい胸やけだといわれ、薬をのみ続けたし、もしかしたら心臓疾患かとも疑い、ハートセンターを訪れて、心電図検査、24時間心電計装着などもしたが、はっきりした診断は下されなかった。
その胸やけ、痛み、苦しみが、数日の断酒で、嘘のように、なにかの冗談のように、ぴたりと治まったのだ。
もうひとつ、夜寝ている間に私を苦しめていた下半身、特に右脚全体に走る痺れ、激痛。
坐骨神経痛か、血流の悪さに違いないといわれ、自分でもそう思って、半ば諦めていたのだが、数日の断酒で、それもきれいさっぱりなくなった。
な~んだ、というしかない。
酒というものは、人間にとって、かくも大きな影響をもたらすものなのか。
みなさんに、伝えたい。
おーい、健康になるって、簡単だよ。
少し酒をやめればいいんだ。
こうして、酒抜きの暮らしに自信を持つようになり、少しは心配していた禁断症状。イライラしたり、喉を掻きむしったりという、絵に描いたような反応も現れず、これなら次の検査とはいわず、それから先もずっと続けられるのではないか。
そう思うようになった私は、さらなる先を目指してみようか、となる。
数日やめただけで、これほどに変わるのなら、もっと大きく変わってみようじゃないか。
精神的にはなんの問題もないことがわかったので、次は肉体的な改造に取り組んでみるのはどうだろうか。
現在の私は、昔は格好よく、性能もよく、燦然と、誇りやかな高みに立っていた車だった。
いまは、昔の名残は残していても、パワーもスピードも衰え、
「昔はよかったんだよ」
といわれる、いわばクラシックカー。
そんな過去の栄光、輝きにだけすがっていていいものか。
それでいいと思っていた。
自分には、過去しかない。
そう思っていた。
だが、数日でかくも変わる自分を見て、考え直した。
いま私が生きているのは、生きようとしている姿は、昔の私ではない。
とっくに終わったと思っていたのが、みゆきと出会って、新しい人生を生きようとしているいま、肉体も、そして暮らしそのものも変えた方がいいのではないか。
つまり、ガレージに眠っていて、ときどき眺めて満足していたクラシックカーに、チューニングアップを加え、磨きをかけ、ときには塗装を施し、クラシックカーは変わらないまでも、大きくアップグレードしてもいいのではないか。
私は、早速動き始めた。
まず、いまの自分がどれほど衰えているか。
どれほどポンコツになっているか。
それを調べるために訪れたのが、「一色整骨院」。
葉山に移ってきたときに新築した、御用邸近くの家に程近い、そしてそのわずか前に開業したばかりだった整骨院。
そんなとき、私が引っ越しの疲れや、さまざまな気苦労からぎっくり腰のような症状を迎え、駆け込んだことからこの整骨院との付き合いは始まった。
腰が痛い。肩が痛い。身体の動きが重い。
なにかにつけ、世話になっていた。
正しく教育、訓練を受けた数人の整体師、トレーナー、鍼灸技師。
そうしたひとたちが、ある時期の私を支えてくれたのだった。
私が一色から、いまの森戸海岸に移って、さほど大きな肉体的な不調もなかったせいもあって、足が遠のいていたのだが、今回久しぶり出かけてみたのだ。
数年前の私をよく知っているひとがいれば、いまの私の状態もわかってもらえるはず。
「一色整骨院」は、いくらかの模様替えはあったにしても、ほとんど以前のままだった。
「お久しぶりです」
奥から迎えに現れたひげの男性は、前は初々しい若者だったが、いまではすっかり貫禄も付いた副院長。
私の話を聞いた副院長は、まず身体をほぐすことから始めましょうと、若い女性整体師を招いた。
全身、特に腰から背中にかけてのマッサージ。
そしてとくに固まっている部分への鍼治療。
丁寧なマッサージ。
16本もの鍼。
「すごく固まっています。それに背骨をはじめとする骨格が大きく歪んでいます」
骨格矯正から始めなければならない、という。
一週間おいて、今度は前述副院長による骨格矯正。
これはすごかった。
副院長が私の身体を押し開き、捻り上げ、引き延ばし、満身の力を込めて「作り直し」しようとする。
三十分余り、私はただ唸るだけで、声もなく、なすがまま。
「はい、また来週です」
といわれても、小さなベッドから立ち上がることもなかなかできなかった。
だが、この骨格矯正は、眠っていた私を目覚めさせた。
帰って、ふーっと息をついて、大量の水を飲んで、プーリーをかまったりしていて、なぜか自分が生き返ったような、生まれ変わったような、そんな気分が芽生えていたのだ。
よくいうような、マニンゲンに戻った気分でもあった。
これは、いいや。
もっとなにかやってみたい。
葉山でも、私の「テリーズバー」に比較的近い場所に、
「Y,s BODY FACTORY」というトレーニングジムがある。
多くの機械を並べて、何人もが一斉に身体を鍛えるジムではなく、マンツーマンによる個人指導。つまりパーソナル・トレーナーのスタジオ。
初めて訪ねて会ったトレーナー日高靖夫師は、まだ若いが、日本フレックス教会の会長を務める才能ビト。
私が、大改造の趣旨を話すと、日高師、大きく頷いて、
「そうした方が来てくれるのを待っていたんです」
ジムに通ってくるひとは女性が多く、主にダイエットや、身体の柔軟性を保ち、鍛えるためのひとだという。
「だから、佐山さんのような、本格的に鍛えよう、強くしようという男性は大歓迎です。やりがいがあります」
年齢は、関係ないという。
やる気になった日高師。
初日だというのに、これまでやったこともないような、キツーイストレッチから。
身体を左右前後に激しくひねり、伸ばし、開き、さらにはヨガのポーズも取り入れ、私は幾度も転がり倒れそうになる。
そのあとは、機械を使っての筋力アップだが、
「最初からあまりきついとかえってよくないから」
と、次回に回す。
週一回の十回コースを選んだ。
その二回目。
みゆきが一緒に来た。
第一回とほぼ同じ。いくらかきつくなったメニューを進めているときに、みゆきと日高師はヨガについての話を弾ませていた。
そういえば、みゆきはその昔、ヨガの指導者の資格を習得していた。
いまは、葉山や逗子で行われるヨガスクールやイベントなどに参加する程度だが、
「その気になれば、ヨガ教室を開けるのよ」
ともいっていた。
トレーニングからの帰り、思いついて、
「今度、みゆきにヨガを教わろうかな」
といってみると、みゆきはぱっと表情を変えて、
「えっ、ホント!私とヨガをしてくれるの?本気?」
わーっ、うれしい!
と、なんと涙ぐんでいるではないか。
自分と一緒になって、人生の、身体の、心の大改造をしようとするテリーが、みゆきの胸に大きな胸に大きな感動をもたらしたようだった。
最近のみゆきは、なぜか涙もろい。
「ミユキハウス」の二階の和室が、「ミユキ・ヨガ教室」になった。
センセイひとり、セイトひとり。
みずからがピアニストであると同時に、ピアノの先生でもあり、ドイツ語の正規通訳、英語はもちろんネイティブ、フランス語の教師でもあるみゆきは、ヨガに際しても「センセイ」であることはやめない。
「初心者」であり、なによりも、大切な「オット」であるはずの私にも、一般生徒のように、優しい、静かな口調で、
「もっとまっすぐね」
「指はスーッと伸ばして。もっとスーッと。そうです。そう、そう」
「背中を丸めないでね。そうでーす、そう。いいわよ~!」
「息を吐いて。ふーっと。ふーっと。はーい。できてるわよ。」
私が弱音を吐いたあと、
「お願い。冷やかさないでね。わたし、真剣になっているんだから、テリーも頑張ってね」諭し聞かせる本気な先生でありました。
でも、みゆきセンセイ、新しい、ひとりだけの生徒のために、すごく高価なヨガマットを買ってきてくれたり、大いに喜んで、楽しんでくれている。
こんなことも、私の大改造の効果なのだろうか。
来週、二回目の血液検査の結果が出る。