たかが健康のために

たかが健康のためにあとになってテレビなどで知ったことだが、その夜の東京・渋谷はあたかも無法地帯だったそうだ。

十日ほど前にも、予行演習のつもりなのか、非常識、無教養、付和雷同的な若者たちや、それに便乗するやはりおバカな連中が、調子に乗って羽目を外し、誰ひとりとして楽しくも、面白くもない幼い暴動を引き起こした、いわゆるハロウィーン。

そのときの世間の、メディアの反響に懲りて、もうやらないだろうと思っていたが、あの、どこかの地方都市やら郊外から、渋谷指して集まって来た時代遅れたちには、その反響、反感がかえってエネルギーになったらしく、本当のハロウィーンの夜は、前にも増してのライオット、程度の低い暴動になったようだ。

 

たかが健康のためにわが葉山の町は、同じハロウィーンでもそうした無知無教養なことはない。

それぞれが魔女やいたずら天使、スーパーマン、スパイダーマン、可愛いゾンビなどの仮装をした子供たちが、

「トリック・ア、トリート(お菓子をくれなきゃ、いたずらするぞ)!」

と口々に、指定されたレストランや商店を巡って歩く。

一緒に歩く若いお母さんたちが、嬉しそうで恥ずかしそうで、可愛い。

「エスメラルダ」でもそうした光景が見られ、テラス席でそれを笑顔で眺めていた私たちだったが、秋の空が暮れ始めたころには、席を立った。

私は、プーリーを連れて「テリーズバー」へ帰る。

みゆきは、自転車に乗って「ミユキハウス」へ帰る。

だが、私たちの夜が終わったのではない。

私たちのハロウィーンは、これから始まる。

「じゃ、七時ごろに行くよ」

「仮装はしなくていいわよ」

「OK。この格好で行く」

「でも、少しは仮装して来て」

 

たかが健康のためにというわけで「ミユキハウス」での「ハロウィ-ンの夕べ」が始まったのだが、少しは仮装を、といわれても、私にはないもない。

カルニバルのマスクも、吸血鬼のマントも、怪獣の縫いぐるみもない。当たり前だ。

思い切って、いちばんのぼろを着て、顔を汚して、

「ゾンビだぞーっ!」

とやってやろうかと思ったが、なんだ、いつものままじゃないか、といわれたら困るので、ちょっと派手なおしゃれにとどめた。

「HAYAMA TIME」由美さんデザインによるもので、前回のファッションカタログで、「モデルの」私が着用に及んだ真紅のニット・パーカー。

そのパーカー部分を外に出すように、白地に赤、紺、イエローのラインが施されたイタリアンは、カステル・バジャックのダウンジャケットを着る。

ついでに、雪の日の散歩用に購入した白いニットキャップ。

こんな装いで暗い夜道を急ぐ私に、すれ違うひとたちは一様に目を見張っていた。

このあたりに知り合いは多いはずだが、こちらも向こうも、誰だか気づかずに済んだようだった。

 

たかが健康のために「ミユキハウス」では、もうハロウィーンの準備が整っていた。

私の装いを見たみゆきは、

「キャーッ、おっ洒落ーっ!」

といったが、みゆき自身もなかなかのもの。

写真で見てもらえば、その怪しさ、妖艶さ、美しさ、エキゾティシズム、ハロウィーンっぽさ(そんなもの、あるかな)がわかると思うが、こんな格好ができるヨメサンは、ほかにはちょっといないだろう、と真っ赤なおじさん、ついつい嬉しくなってしまうのでありました。

すこしふたりでじゃれ合ってから、用意の整っているテーブルに。

お互いのグラスにワインをつぎ合って、

「ハッピー・ハロウィン!」

これはわかるにしても、次にみゆきがいった、

「ワイン解禁、おめでとう!」

には、説明が必要かな。

 

たかが健康のために実はこの日の、ふたりだけのハロウィーン・パーティは、私の、

復活祭の夕べ

でもあった。

久しぶりに、実に久しぶりに、私がワインを、酒類を口にするときなのだ。

 

二か月近くの、正確にいえば五十三日ぶりの「オサケ」!

長い、長い、我慢の日々でありました。

 

酒をやめた、酒類を断った、禁酒、断酒のときは、前回も、前々回も書いたように、私のかなりひどい体調の悪化から始まった。

血糖値は、標準をはるかに上回る、明らかな進行した糖尿病を示していたし、肝機能も、とても正常、健康とはいいかねる数値であった。

本来なら、即入院、となるところ、みゆきとふたりの主治医、心優しい女医さんは、

「節制しながら様子を見ましょう。お酒は極端に減らしてください」

といってくれたが、そこにみゆきが同席していたのがよかったのか、まずかったのか、クリニックから帰って、厳しくいい渡す。

「少なくとも、次の検査まで、お酒はきっぱりやめて。一滴も飲まないで。約束して」

私も付き合うから、という。

そのときのみゆきの、本当に真剣な、涙ぐんでさえいる表情に、私はなにもいい返すことができない。

たかが健康のために自分だって一緒に、楽しく飲んでいたじゃないか。

ふたりで、いい酒の時間があったから、いまのときがあるんじゃないか。

などといい返せる雰囲気ではない。

そして、なによりも私が思ったのだった。

 

酒をやめよう。

 

そして二か月近く、酒は、ビールもワインも、少しも飲まなかったし、ふたりで食事に行って、みゆきには、

「いいんだよ」

と、ワインや、ビールを進めても、私はウーロン茶か、水か、ハーブティ(!)。

そして、酒と年齢とで破滅しかけていた肉体改造に、スポーツジムのパーソナルトレーニングを受け、整骨院での骨格矯正も、定期的に受けるようになった。

 

そうしているうちに、身体も気持ちも慣れてきたのか、酒のないストイックな日々が苦痛でもなく、寂しくもなく、苦痛というよりも却って快適に感じられるようになったのだ。

 

たかが健康のためにしかし、その反面、そうした従順な自分に対して、これでいいのか、という反発もあった。

健康とは、そんなにいいものなのか。

三島由紀夫の作品に、こんな一節がある。

 

『百パーセント健康であることへの気恥ずかしさ。』(『鍵のかかる部屋』)

 

こういった感性の持ち主でありたい。

多くのひとたちには理解できないだろう。

健康がすべて、とする「健康バカ」とは一線を画していたい。

一般のひとには間違いであろうと、この美意識。

多くのひとが否定することを、あえてよしとする価値観。

崩れゆく、滅びゆく、やがては死に果てる自分を愛する生きざま。死にざま。

 

そんな自分が好きで、これまで生きてきた私だったはずなのに、その美意識、価値観、生きざまを、いまあえて捨て去ろうとしている。喜んで。

なぜだろうか。

 

たかが健康のために私の、愛する対象が変わったのだろう。

自分が一番好きで、自分の在り方をなによりも信じて、愛していたのが、自分以外のものを、自分以外のひとを愛するようになってきたのか。

そうではない。

自分を愛しているが、自分以外のひとも愛するようになった、というべきだろう。

私とみゆきを。

みゆきと私のこれからを。

 

そのためには、酒をやめることなど、どれほどのことか。

 

しかも、その暮らしが一生続くわけではないのだ。

 

禁酒、断酒から、私にとっては長いときが過ぎ、そうだ、まさに四十九日! 

やさしき女医さんは、私の身体の、数値の変化を見せてくれた。

それによると、

 

たかが健康のためにまず、肝機能。

GOT    51⇒33 (基準値10~40)

GPT    47⇒44 (5~45)

γ‐GTP  323⇒64 (0~70)

まったくの基準値内。健康体だった。

中性脂肪も    261⇒136 (35~149)

基準内。

糖関係だけは、半年や一年で変わるものではないので、大きな変化は見られないものの、確実に改善されつつあるという。

トレーニングの効果も表れているようで、ハロウィーンの夜、なぜか私を見てみゆきがいうのだった。

「胸や肩に筋肉がついてきたわね」

 

ハロウィーンの夜、ワインは、白、赤、二本、グラス二杯ずつ開けた。

 

マルセル・ユーグ ピノ・ノワール・レゼルブ(赤)

シルヴァネール・レゼルブ(白)

 

どちらもドイツ国境に近いアルザスのワインで、爽やかで透明な味わい。

 

プルミエールには、

帆立とポルチーニ、豚肉のパイ包み

~黒トリュフの香り~

たかが健康のために

 

これに、みゆき手作りは、

ステック・ドゥ・トン(マグロのステーキ)

グリーンサラダ添え

日本大根のスープ

 

ふたりだけの晩餐のあと、みゆきは濃艶な網タイツ姿。

私も、マスクで胸のうちを隠して。

 

私たちふたりの、気品も教養も、多少の恥じらいもある、ハロウィーンの夕べは、こうして過ぎていったのであります。

あの夜から、まだ酒は飲んでいない。

飲まなくても、満ち足りている。

 

 

たかが健康のために

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